大和國:二百八十六座
大一百廿八(並月次新甞。就中卅一座預相甞祭。)小一百五十八座(並官幣。)
添上郡、添下郡、平群郡、廣瀬郡、葛上郡、葛下郡、忍海郡、宇智郡、吉野郡、宇陀郡、城上郡、城下郡、高市郡、十市郡、山邊郡
添上郡[ソフノカミ]:卅七座(大九座 小廿八座)
鳴雷神社[ナルイカツチ](大。月次新甞。)
春日大社境内末社の鳴雷神社[めいらい]「天水分神」奈良県奈良市春日野町161
率川坐大神神御子神社三座[イサカハノ] リンク 三枝祭
大神神社境外摂社率川坐大神神御子神社[おおみわ][いざがわにますおおみわみこ]神社「姫蹈鞴五十鈴姫命、玉櫛姫命、狹井大神」奈良県奈良市本子守町18 玄松子の記憶
狹岡神社八座[サヲカ]
狹岡神社[さおか]「若山咋之神、若年之神、若沙那売神、弥豆麻岐之神、夏高津日之神、秋比売之神、久久年之神、久久紀若室綱根之神」奈良県奈良市法蓮佐保田町604 玄松子の記憶
漢国神社[かんごう]「大物主神、大己貴神、少名彦神」奈良県奈良市韓国町6 とんでもとらべる 玄松子の記憶
率川阿波神社[イサカハアハ]
大神神社境外摂社率川坐大神神御子神社境内の率川阿波神社「事代主命」奈良県奈良市本子守町18 玄松子の記憶
宇奈太理坐高御魂神社[ウナタリノタカミムスヒ](大。月次新甞。)
宇奈太理坐高御魂神社[うなたりにいますたかみむすび] 「高御魂尊、太玉命、思兼命」奈良県奈良市法華寺町600 とんでもとらべる 玄松子の記憶
莵足社「?」奈良県古市町 → 春日大社境内に勧請、その後衰微と伝わる。
和 坐赤坂比古神社[ワニ](大。月次新甞。)
和爾坐赤阪比古神社[わににますあかさかひこ]「阿田賀田須命、市杵嶋比賣命」奈良県天理市櫟本町大字和爾字北垣内1194
穴吹神社[アナフキ]
穴吹神社[あなぶき]「天太玉命、伊栗大神、穴栗大神、高皇産靈神」奈良県奈良市古町穴栗677 玄松子の記憶
和 下神社二座[ワニシモ]
和爾下神社[わにした](上治道天王神社)「素盞嗚命、大己貴命、稻田姫命」奈良県天理市櫟本町櫟本字宮山2490 玄松子の記憶
和爾下神社
櫟本の治道山、字宮山に鎮座し、素盞嗚尊(中)と大己貴命(一名大国主神)(左) と稲田姫命(右)の三柱を祭神としている。 今より1070余年前に藤原時平等が醍醐天皇に献上した延喜式神名帳に「和爾下神
社二座」とある。大和志(享保21年関祖衡編)には「和爾下神社二座、一座ハ櫟本 村ニ在リ曰ク上治道天王ト号シ、近隣五村共ニ祭祀ニ預ル。一座ハ横田村ニ在リ曰ク
下治道天王ト号シ、近隣十一村共ニ祭祀ニ預ル。」とあり、また大和名所図会(寛政 3年秋里籬島輯)にも「和爾下神社二座、横田村と櫟本村とにあり、治道天王と称す
、神名帳に出」とある。新撰姓氏録考證(栗田寛著)には「奈良朝神社注進状に據れ ば和爾下神社の神官は櫟井氏にして祭神は天帯彦国押人命、日本帯彦国押人命の二座
なり」とある。共に櫟井臣・和珥臣の祖神であり、明治初年に和爾下神社祠官辰巳筑 前の其筋へ差出した記録には旧祭神として「本社、天足彦国押人命・彦姥津命・彦国
葺命・若宮難波根子武振熊命」とある。新撰姓氏録によれば「櫟井臣、和爾部同祖、 彦姥津命(孝昭天皇皇子天足彦国押人命の後なり。)柿本朝臣、天足彦国押人命の後
なり。和爾部、天足彦国押人命三世孫彦国葺命の後なり。」とある。
しかるに時代移り現在の祭神は神社明細帳に本社大己貴命(一名大国主命)素盞嗚命 ・稲田姫命をまつり秋祭は10月14日、若宮は事代主命とある。素盞嗚命、即ち牛
頭天王として崇め7月14日を祇園祭として賑わうのである。
東大寺要録には神護景雲3年(769)東大寺領の櫟庄に灌漑すべく高橋山から流れ る水を引くために高橋川の水路を櫟本の東部から南へ流れていたのを北へ移動し西流
するよう河川の造り替えをし道路をも改修した。12月10日に工事を初め翌4年4 月1日に竣工してこの森を治道の杜といい神社を治道宮といった。寿永2年(118
3)藤原清輔の弟顕昭(太秦寺住職)が著わした柿本朝臣人麻呂勘文には「添の郡石 上寺の傍に祠有り治道社と号す、祠の辺の寺柿本寺と号す。是人麻呂建つる所なり。
祠の前の小塚人麿の墓と名づく、清輔往て之れを観る所謂柿本寺の礎石僅に存す人麻 呂の墓高さ4尺許り、因て卒都婆を建る云云」とある。今から780余年前に「治道
社」の名が見える。治道山柿本寺跡からは白鳳時代の古瓦が出土している。
和爾下神社の石燈籠にも「治道宮天王」(元和元年銘)とあり、鳥居の古額にも「治 道宮、黄檗南源」とあった。現今のは文秀女王の御染筆で「和爾下神社、大和式部」
とある。
大友文書によれば建武4年(1337)6月26日南都警固の狭間正供・出羽泰貞等 が天王山(治道社)と柿本寺に陣取って南朝軍と戦うこと3日、南軍敗れて遂に櫟本
は北軍の領となった。時に北軍に櫟本春徳丸の名が見える。秋祭渡御の御神刀の鞘に 朱字で「奉寄進牛頭天王御宝前(貞享元年)」とある。
本殿は3間社、流れ造り桧皮葺き1間向拝づき、桃山時代の特色のある極彩色の優美 な建築である。昭和13年7月13日附で国宝建造物に指定され現在は重要文化財で
ある。古記録によると慶長年中(1596−1614)の本殿改造以来、屋根替葺は 寛永・寛文・明暦・元禄・宝永・享保・寛保・宝暦・明和・安永・文政・天保・明治
20年・昭和13年・同46年の15回が記録されている。天保13年度の本殿屋根 替代は銀1貫66匁・9月晦日より日数48日、11月17日上遷宮とある。明治2
7年11月に若宮拝殿が建ち同29年4月13日に本社拝殿が落成している。昭和4 6年10月本社屋根替と拝殿改築、社務所の新築が行われた。
昔は細男座・田楽座・御輿座の3つの宮座があった。各々の頭屋では10月12日御 供つきがあり14日には各頭屋から素襖を着た騎馬の御幣頭人、青竹をついた羽織袴
の警固は荷前・騎馬姿の甲冑を従えてお仮屋の陣屋へ入り渡御の時には神輿のあとか らついて1キロ西の二つ鳥居のお旅所まで渡ったのであるが昭和19年から全く簡略
になったのである。
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和爾下神社(下治道天王神社)「素盞嗚尊、大己貴命、櫛稻田姫命」奈良県大和郡山市横田町字治道23 玄松子の記憶
奈良豆比古神社[ナラノツヒコ]( 靫) リンク 奈良豆比古神社
奈良豆彦神社「奈良豆比古命」奈良県奈良市奈良坂町字奥垣内2489
楢神社「 五十狹芹彦命、鬼子母神」奈良県天理市楢町
大和楢神社栞
当社の由緒については古板木によると、「伝聞大和国添上郡楢郷楢大明神は往昔加賀 国石川郡白山の嶺に現れ給ひて、祭神御神諱を石川比・命と号し奉るなり。御本地は
訶黎帝母に在し此御神慈照方便深くして抜苦与楽の御神なり。御神誓空しからずして 和光同塵の眼を開きたまひ小児を愛し給ひ万民撫育し給ふ事世の人の知る処なり。
抑当社御鎮座の濫觴は神護景雲元年9月13日白山の嶺より天真阪樹に乗給ひて当国 石川乃河上楢郷に着給ひて此神木に影向あらせ給ひて光を放ち給ひ庶人奇異の思ひを
なして人皇48代称徳帝の御宇奏聞を遂ぐ其後神託によりて此所へ社殿造営有しとい へども練苦風雨に破し将又兵火乱放の為に亡し其後時移りて時代の大守君より社殿再
建有し事も星霜800余年を経れば雲を凌ぐ社殿門扉も其形残るといへども旧殿乃有 し所今礎さえも定かならずといへども明神の擁護は日々夜々に新しく影向の神木は兵
火の厄に焼亡すといへども樹根より若芽を生して枝葉今に繁茂して古代かわらず今社 内にあり斯霊地なるがゆへに歌に吟じ詩に賦して世に楽しむ事全く当社の神徳いちじ
るしければなり。故に此社へ一度歩を運ぶ輩は諸願成就皆合満足して諸人は愛敬を得 て武門は家運を弥増し農業工匠商家は各其業職を安穏にして福徳自在長寿になさしめ
んとの御神賜也。実に参詣の輩さへかくの如し況や仮にも楢号を受け氏子となりて祈 願の輩は諸願多在といへども攘賜招福長寿延命の霊神何そ其人を護り給はざらんや嗚
呼信ずべし尊むべきは御神徳なり、将に願くは有信乃輩共に信施を催し給へとしかい ふ。
これによると祭神は石川比・命にして、加賀の白山権現で本地は訶梨帝母(かりてい ぼ)で石川という地名が楢の西にあり今大和郡山市に属していてその川上が楢で、も
との鎮座地は今の場所でなく、上の宮と称する神明社の地と伝えられる。古の山の辺 の道に沿い元禄年間の櫟本村絵図にも、ここを楢村宮と記されている。神明神社は天
照皇大神を祭としているが恐らく兵火で焼亡した以後に今の地に移し、その跡を神明 神社として崇敬したと考えられる。当社は下の宮と称していて、当社の祭典当日に当
屋の主人および大字の係員、親戚らが渡御の行列で、本宮から奥宮(上の宮ともいう 、神明神社のこと)へ旅されるのである。
また別な板木を読むと、恭敬給当社楢大明神は祭神石川比・命にして本地は円満具足 天の陰神訶黎帝母天に在野の神霊験著明く諸願必ず協給ふ(中略)翌14日(3月)
金剛寿命経(千巻)読誦奉り寿命長延ならしめんと欲す(下略)慶応2丙寅年仲春社 預執事。社人木村金吾とある。維新以後になつて五十狭芹彦命神社(祭神五十狭芹彦
命)と改めた。何によるか事情はよくわからないが、日本書紀の崇神天皇の条にある 「武埴安彦その妻吾田媛と共に謀反逆す。五十狭芹彦命を遣して吾田媛の師を撃たし
めたまふ」とあるによつて五十狭芹彦命を楢と那羅山の名から氏神としたものか、明 治・大正・昭和の初までこれで来たが昭和31年6月19日に至つて社名をもと通り
楢神社と改めた。そして7月9日に登記をしたが祭神名は五十狭芹彦命となつている 。
以上
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神波多神社[カムハタ](鍬)
神波多神社[かみはた]「神須佐之男命 合 櫛稻田姫神、春日大神」奈良県山辺郡山添村中峯山310 玄松子の記憶
高橋神社[タカハシ]
高橋神社「幡千千姫命」奈良県奈良市八条町菰川338
和爾下神社(上治道天王神社) 式内和 下神社に掲載 奈良県天理市櫟本町櫟本字宮山2490
太祝詞神社[フトノト](大。月次新甞。)
森神社「天兒屋根命」奈良県天理市森本町字高岸178
宅布世神社[イヘフセ]
宅布世神社[たくふせ]「天兒屋根命」奈良県奈良市鉢伏町62
大和日向神社[オホヤマトヒムカヒ](鍬靫)
春日大社境内末社の浮雲神社「天兒屋根命」奈良県奈良市春日野町160
夜支布山口神社[ヤキフ](大。月次新甞。) リンク 大柳生太鼓踊り
by 興東中学校
夜支布山口神社[やきふやまぐち]「素盞嗚命」奈良県奈良市柳生町字神野宮308(大柳生町3089)
夜支布山口神社
大柳生の氏神で、平安時代の延喜にあらわれている古い社です。境内にある摂社立盤 神社の本殿は、春日大社の第四殿を、延享四年(1747年)に、ここに移したもの
です。この神社には、一年交代で集落の長老の家に神様の分霊をむかえる「回り神明 」と言う、珍しい行事が伝えられており、700年の伝統をもつ大柳生の太鼓踊りが
奉納されます。 |
春日神社[カスカ]
春日大社廻廊内西南隅の摂社榎本神社「猿田彦大神」奈良県奈良市春日の町160
賣太神社[ヒメタ] リンク 稗田環濠集落と賣太神社
賣太神社[めた]「稗田阿禮」奈良県大和郡山市稗田町319 玄松子の記憶
賣太神社
参拝のしおり
賣太神社御由緒 主斉神稗田阿礼命 当社は奈良県大和郡山市稗田(ひえだ)町319番地に鎮座しており、稗田阿礼命( ひえだのあれえのみこと)天宇受賣命(あめのうずめのみこと)猿田彦神(さるたひ
このかみ)をお祀りしている。稗田の地は、太古より天宇受売命を太祖とする猿女君 (さるめのきみ)(稗田氏)が居住していた。奈良時代に至り、阿礼さまがお生まれ
になって天武天皇に舎人(とねり)としてお仕え申し上げていた。阿礼さまは、人と なり聡明で博覧強記に富んだ卓抜な才能の持主であったので、天皇は数多くある学者
や名門出身の役人の中から特に廿八才の若い阿礼さまをお選びになり、天皇がご精選 された歴代の神様のご事績、皇位継承や天皇のご事績、神代以来の各氏族の歴史等、
数多くの事柄を勅語(みことのり)にて誦習(よみなら)わしお授けになった。この 誦習った事柄を三十有余年後の元明天皇が、太安万侶さまに、「稗田の阿礼の誦習っ
た事柄を記録せよ。」 とお命じになった。このようにして和銅五年(七一二年)正 月二十八日に出来上がって天皇に撰上申し上げた書物が古事記である。古事記は上・
中・下の三巻からなり、我が国最古の国史・文学の書物で、多くの神話・伝説が豊富 にとり入れられている神典であり、又古代人の生活、習慣、思想が多方面にわたって
うつし出されているのであるから、私達の祖先の考え方や生き方を偲ぶのにこよない 手がかりとなる貴重な書物である。おもうに阿礼さまは、日本道徳の真髄を極め伝え
られた文道の太祖であつて宏大無辺のご霊徳を仰ぎ迎えんとして全国より参詣される 方が多く、ご神徳まことにあらたかである。副斉神天宇受売命、猿女君の遠租に当た
る女神で、稗田阿礼命はその末裔(まつえい)である。天の岩屋の神事に、天宇受売 命は、たけだけしい神霊が寄りかかり霊魂を誘発する鎮魂舞踊を演じ、天照大神を岩
屋からお出し申し上げた女神である。又、天と地の分岐点において猿田彦神と出会い 、神懸(かみがかり)により問答された神事などあって、後に猿田彦神とご結婚され
た。これらのご功績により、女性ではあるが、天皇から男性同様猿女君の姓を賜わり 、その後男性も共に猿女君と称し、宮中に仕えられた。この宗族(そうぞく)が稗田
の地に定住され、祖神を祀る賣太神社は、平安初期に官弊社に列せられたのである。 天宇受売命は、後世「おたふく」「おかめ」と言われている女の福徳をそなえられた
神様であるから福の神、鎮魂の神、笑いの神で、芸能の始祖神としてもご霊験まこと にあらたかである。副斉神、猿田彦神、天宇受売命の彦神である。天孫、ににぎの命
の降臨にあたって、天と地の分岐点に立って、天孫をお導きした神である。江戸時代 には、猿田彦信仰厚く御神徳はすべての物事のはじめ即ち新築、移転、旅立ち、結婚
等に災難や悪魔を祓(はら)ってよい方へ導き給うと、昔から諸事をなす際には、そ のご霊徳を仰ぎ迎えんとして全国より参詣に来られる方が多い。 |
春日祭神四座[カスカノ](並名神大。月次新甞。) リンク 春日大社
春日大社「武甕槌命、經津主命、天兒屋根命、比賣神」奈良県奈良市春日野町160 玄松子の記憶
赤穂神社[アカホ]
赤穂神社[あかほ]「天兒屋根命、天満天神、弁才天」 奈良県奈良市高畑町1320 玄松子の記憶
嶋田神社[シマタ]
嶋田神社「神八井耳命、崇道天皇」奈良県奈良市八島町320 玄松子の記憶
嶋田神社
奈良県指定文化財 嶋田神社一棟 昭和五十三年三月一日指定
この本殿は春日移しの社である。春日大社古記録によると、享保十二年(1727年 )春日大社が第四十五回式年遷宮による造営のとき旧本殿のうち第ニ殿を八嶋村に譲
渡したとある。しかし擬宝珠の銘には更に古く記している。移築当時に近い形状を残 していて価値が高い。
昭和五十七年三月 奈良市教育委員会 |
御前社(原)石立命神社[ミサキノ]
御前原石立命神社[みさきはらのいわたちのみこと]「御前原石立命」奈良県奈良市古市町294-1 玄松子の記憶
天乃石吸神社[イハスヒ]
六所神社「大山祇命」奈良県山辺郡山添村峯寺字氏神山257 リンク 六所神社 聖石群
五百立神社[イホタチ]
五百立神社[いおたち]「祭神不詳」 東大寺造営の五百人の木匠を祀ると言われる。 奈良県奈良市雑司町字五百立山406
天乃石立神社[イハタチ]
天乃石立神社[あめのいわたて]「豐磐間戸命、櫛石間戸命、天磐門別命、天照大姫命」御神体は巨石で前伏磐、前立磐、後立磐と三つに割れている。巨岩崇拝。奈良県奈良市柳生町柳生岩戸谷789 玄松子の記憶
天石立神社
延喜神名帳に記載されている式内社である。小社としてその中に加わっている。御神 体は巨石で前伏磐、前立磐、後立磐と三つに割れている。神代の昔、手力男命が天之
岩戸を開けた時、力が余り虚空を飛来しこの地に落下したと伝えられる巨岩崇拝の伝 統である。 |
添下郡[ソフノシモ]:十座 大四座 小六座
矢田坐久志比古神社二座[ヤタノ](並大。月次新甞。)
矢田坐久志比古神社[やたにますくしたまひこ]「櫛玉饒速日神、御炊屋姫神」奈良県大和郡山市矢田町字東良965
矢田坐久志玉比古神社
参拝のしおり
当社は、奈良県大和郡山市矢田町矢田965番地に鎮座しており、櫛玉饒速日命(に ぎはやひのみこと)、御炊屋姫命をお祀りしている。延喜式内社で古くは矢落大明神
又は矢田の太宮と称し、神裔(しんえい)は雄族物部氏である。創建年代は不祥であ るが六世紀前半期の頃までは畿内随一の名社として栄えたと伝えられ当地方最大の古
社である。古典に「天磐船に乗りて大空を翔行(とびゆけ)り」の古事に基づき航空 祖神としてぎ斯界(しかい)関係者の崇敬を聚(あつ)め恩恵を蒙っている。本殿二
棟は重要文化財で国宝である。主な祭日 例祭10月10日、航空祭9月22日、特 殊神事、網掛祭1月8日、筒粥占祭2月1日。 |
添御縣坐神社[ソフノミアカタ](大。月次新甞。)
添御県坐神社[そえのみあがたいます]「速須佐之男命」奈良県奈良市歌姫町字御県山999 とんでもとらべる
添御縣坐神社[そふみあがたにます]「建速須佐之男命、武乳速之命、櫛稻田姫之命」奈良県奈良市三碓町1024
添御縣坐神社
延喜式内 添御縣坐神社の由緒と沿革
この神社は、奈良市三碓町(旧添下郡、後に生駒郡富雄村、現在奈良市)の富雄川東 方の小高い丘の麓に鎮座、建速須佐之男命、武乳速之命、櫛稲田姫之命の三神を奉祀
している。本殿は五間社流造で、中央の間と両端の間に祭神をまつるが、御神体とす る御正躰の鏡の裏に、中央の間は八王子、向かって右の間には牛頭天王、左端の間に
は婆利采女と刻銘がある。牛頭天王と婆利采女はそれぞれ速須佐之男命、櫛稲田姫之 命の仏教的な呼び名であるが、中央の間の御正躰に八王子と刻銘のあることは、修験
道との関連をも推察させるようであるが、明らかでない。
添御県坐神社については、三代実録巻二、貞観元年(八五九年)五月の絛にこの名が 記され、延喜式神名に、添御県坐神社 大新嘗月次。と記され、また延喜式祈年祭に
、御県尓坐皇神等乃前尓白久、高市。葛木。十市。志貴。山辺。曽布登、御名者白弖 。此六御県尓生出甘菜辛菜乎持参来弖。皇御孫命能長御膳能遠御膳登聞食故。皇御孫
命能宇豆乃弊帛乎称辞竟奉久登宣。と見えている。御県は倭王朝が古く設定した王領 で、上記の祈年祭の祝詞に見えるように、大和の六御県からは、甘菜辛菜を貢納して
おり、御県の地の民等がまつった神を、御県神としてあがめるようになったと云う由 緒正しい古社である。 |
菅田比賣神社二座[スカタヒメ](鍬靫)
菅田比賣神社[すがたひめ]「伊豆能賣神」奈良県大和郡山市筒井町1140 玄松子の記憶
菅田比賣神社
参拝のしおり
当社は奈良県大和郡山市一四四〇番地に鎮座しており伊豆能賣神をお祀りしている。 創立年代不詳、式内社、村国墓、贈正一位、安倍命婦、大和志、菅田比賣神二座、須
加多、祭日には、鍬やスキをまつり献納したとある。明治七年「郷村社取調帳」に鎮 座、筒井村、式内村社、菅田比賣神社、祭神、伊豆能賣神 勧進年月不祥、社殿建坪
間口四尺五寸、奥行五尺五寸 拝殿 無御座候 社地総坪120坪、氏子数167 戸、由緒不詳 |
佐紀神社[サキ]
佐紀神社[さき]「天兒屋根命、経津主命、六御県命」 奈良県奈良市佐紀町1716 古代であそぼ、玄松子の記憶
佐紀神社「天兒屋根命、経津主命、六御県命」 奈良県奈良市佐紀町字西畑2701
菅原神社[スカハラ]
菅原神社「天穂日命、野見宿彌、菅原道真」 奈良県奈良市菅原町518
登彌神社[トミ]
登彌神社[とみ]「高皇産靈神、譽田別命、神皇産靈神、饒速日命、天兒屋根命」木嶋大明神とも呼ぶ。奈良県奈良市石水町648-1 とんでもとらべる、玄松子の記憶
登彌神社
登彌神社略記
御祭神
東本殿 高皇産霊神、誉田別命。西本殿 神皇産霊神、登美饒速日命、天児屋命。
境内地
二町七反三畝二十六歩(二七、一六一平方米)
御由緒
延喜式内社、古来木ノ島大明神又は鳥見明神として古人の崇敬篤く、昭和十四年十二 月二十七日には、その由緒の故を以て県社に列せられております。即ち当社の由緒は
大変古く悠久の昔、遠く神代の時代にまで溯りますが、当時、この地方には豪族長髄 彦が天孫饒速日命を奉じて勢力を振い、為に、御東征の神倭伊波礼毘古命(後の神武
天皇)は度々苦戦されましたが、奇しくも瑞鳥金鵄の出現と饒速日命の忠誠により、 遂に長髄彦を破り大和平定の大業を完遂されました。やがて、天皇は、紀元四年春二
月二十三日、鳥見山中の霊畤で、皇祖天神を祀り、神恩に感謝の祭を斎行されました が、その場所が、この地であったと伝承されております。尚当神社神域は饒速日命の
住居或いは墓所であった白庭山であるとの伝説もありますが、その後饒速日命の子孫 である登美連が、ゆかりのこの地に先祖である饒速日命御夫妻と併せて天神地祇をお
祀りしたのが当神社のご創建であらうといわれております。その年代は、詳ではない が慶雲二年(七〇四年)枚岡明神の春日遷幸の折当地に暫しお休みになりました縁故
を以て、和銅年間春日明神を勧請せりと記録にもあり奈良朝のかなり以前より既に創 建されていたことは想像に難くありません。亦今より約八五〇年前(一、一二〇年余
)には瀧台山瀧寺の鎮守であったと見え、その時の方丈であった俊恵法師が河内より 仏師を迎え御神像を造らしめて奉納せりと伝えられておりますが、この御神像は木彫
で今も御神体として殿内に奉斎してあります。御祭神は世の変遷に伴い多少変動はあ ったようですが現在は造化の神であらせられる高皇産霊神、神皇産霊神と、春日明神
であらせられる天児屋命、八幡宮であらせられる誉田別命並びに天忍穂耳命の御子で 、天孫天津彦火火瓊々杵尊の御兄で、大和平定に大功のあらせられた饒速日命等五柱
の大神等を東西の二本殿に奉斎し、左右の小宮には摂社として天照大神、豊受比賣神 等十七柱の神等を合祀、併せて二十二柱の神々を奉斎してあります。このように、ゆ
かりの神々をお祀りしてありますが、御神徳の発揚も極めて顕著でありましたので時 の藤原氏、梶井宮院或いは豊富大納言秀長等の有力者の尊崇も深く、神額、紋入桃灯
、絵巻、塀地門等を寄進されたとの記録も残っております。亦、文政三年(一、八二 〇年)十一月十五日の社殿焼失の際には不思議にも御神体は庭前の松の枝に留り給い
、而も、独り神主左平次のみ認めえたということであります。
昔、城村は古屋敷に一村としてありましたが、或る時、年番の夢枕に「洪水あり、速 く立ち退くべし」とのお告げがあり、直ちに川の東西に分れてその難を免れたとの言
い伝えもあります。亦祭費の乏しいのを憂いました時にも社の裏山に松茸は多く生ぜ しむるにより祭費に充てよと夢のお告げが神主にあり、果してその年の松茸は豊作で
あったと云う不思議な話も語り伝えられております。徳川時代の旧記によればその頃 神域は広大で、鬱蒼たる森林九町余に今の主水山には春日大社の一の鳥居を移した大
鳥居が建立され、それより内二町余は馬場であり、お祭りには爪揃競馬が催されてな かなか賑ったそうであります。以上 |
伊弉諾神社「伊弉諾尊、配祀 素戔嗚尊、大己貴尊」長弓寺境内 生駒市上町4447
菅田神社[スカタ]
菅田神社[すがた]「菅田比古命」奈良県大和郡山市八条町619
伊射奈岐神社[イサナキ](大。月次新甞。)
伊弉諾神社[いざなぎ]「伊弉諾尊」奈良県生駒市上町4447
伊弉諾神社
御由緒
当社は聖武天皇勅願による長弓寺の守護神として建立せられ牛頭天王の宮と称せられ たが神仏分離の明治新政にあたり現在の社名に変更がありました。 |
平群郡[ヘグリ]:廿座 大十二座 小八座
龍田坐天御柱國御柱神社二座[タツタニ・・アマノミハシラ](並名神大。月次新甞。)
龍田大社「天御柱命、國御柱命 合 竜田比古神、竜田比女神」
風雨を鎮め水難・疫病を防ぐ神と 楓・桜等の四季を司る神を祀る。五穀豊穣、息災長寿天地萬有厄除の神である。 大和川の北岸、風光明眉な楓の竜田川の北東の神奈備、御廟山の南麓に鎮座し敬神の中枢である。
奈良県西和市三郷町大字立野字竜田1701-1 リンク 玄松子の記憶
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龍田大社
龍田大社由緒略記
御祭神
天御柱命国御柱命の二座に座します。又の御名を志那都比古命、志那都比売命と申し 上げ伊邪那岐命、伊邪那美命の御子神におわしまして天地の大気即ち風力を主宰し給
う。よって風の神と称します。
御由緒
第十代崇神天皇の御代に天下の公民が耕作に最も大切なる五穀を始め種々の作物は揮 て凶作となり一年や二年にあらずして累年に及び更に悪疫が流行して天下は騒然であ
りました。天皇が非常に御心を悩ませ給い多くの卜占者に占はしめたが如何なる理由 か其の根拠は全く不明に終わりました。茲に於いて御自ら天神地祇を祭らせ給ひて御
誓約を行わせられ祈請を込められましたところ御夢に大神が現れ、給い吾は天御柱命 国御柱命なり天下の国民の作れる物共を暴風洪水に遭いて凶作となり其他災害の起れ
るは我が心機の平安ならざるものあり、仍て吾宮を朝日の日向う処夕日の日隠る処の 龍田の立野の小野に造営して吾前を鄭重に斎き祀らば五穀を始め何れの作物も豊穣な
らしめ災禍も自ら終息して天下太平の御代と成るべしとの御神教がありましたので直 に御悟しに従い社殿を此の地に造らしめ給い厳粛に奉斎せしめられました。其れ即ち
当社の起源でありまして今より凡そ二千百年前の事であります。其の後は龍田の大神 の御教への如く万作は豊熟し疫病は退散して太平の世の中となりましたので国民は大
いに喜び天皇の殖産恵民の広き厚き大御心を仰ぎ尊び奉り深く感謝して和楽の御代の 出現を忝く思い打ち揃って家業に勉励する様になりました。斯の如く誠に御神徳の高
く広い大神であらせられましたから朝廷の御崇敬は極めて篤く春秋恒例の祭祀を始め 臨時の祈願大祭には廃務を仰せ出だされ勅使が参向し弊帛其他貴重なる品々を奉献せ
られ盛大なる祭典を執行致しました事は古書に見ゆる所であります。
平安朝以後には当社を官幣の明神大社とせられ近畿諸社中朝廷の御崇敬最も厚き十六 社又は二十二社の内に撰ばれ社名も実に高く勿論由緒顕著でありましたから明治四年
五月十四日に早速官幣大社に列せられました。
大東亜の終戦後は制度の変革がありましたので現在は龍田大社と称し神社本庁の別表 神社と成っておりますが一般民衆の信仰は広大なる御神徳に依り遠近各地より其の恩
恵を享けて災難なく安全多幸を祈る参拝者或は名所古跡を訪れる文人詩客の参詣も甚 だ多い野であります。
御神徳
御祭神は天地の大気、生気、即ち風力を主宰し給へば風神と申上げています。天御柱 命、国御柱命と申す御名は天と国とは彦神を天に姫神を国に比して称し奉り御柱とは
真柱の事にして天地万物の中心の柱の義で即ち空気或いは風の事で志那都比古命、志 那都比売命と申す御名の志那は息長(シナガ)の義で気息(イキ)即ち風の長く遠く
吹き亘るを云う、斯くて天候、気象の変化旋転するは大神の御威霊なる風力を基本と し中心とする事なれば農業には暴風洪水の禍害なく五穀豊穣し、航空業を始め航海業
、漁業、建築業等に関係を持つ人々は除難多幸を願い現代の如く交通頻繁なる道路を 自動車が往来する時運転者には風神龍田大神の守護に依りて誤りなく安全に操縦して
無難幸福を祈念する参拝者も近年は著しく増加しております。殊に気息の神として延 命長寿を祈願する者は往昔より今に変わる事なく非常に多いのであります。
風鎮祭の由来
当大社の御祭神は前記の通り風気を主宰し給う風神でありまして磯城の瑞垣の宮(第 十代崇神天皇)以来朝廷が風水の被害なく無事に五穀を始め総ての作物の豊作、国家
の安泰、庶民の福祉を祈願されておられましたが、勅使を参向せしめられて風神祭を 厳粛に執行されたのは天武天皇が始めであります。その後は平安朝の後期まで引き続
き勅使参向のうえ執行されております。
風神に風鎮め即ち順風を祈る祭祀として風鎮祭と称する様になったとされるこのお祭 りは最も丁重を極め神饌幣帛を奉献のほかに彦神に矛楯御馬に御鞍を具えて奉り、姫
神には金の麻笥(オケ)、金のATALI、金のkasehiその他御馬に御鞍を具えて奉り十 分言葉を尽くして丁重に祭典を執り行ない御神慮を慰め奉り広き厚き恩頼を授けられ
ん事をお祈りしたる大祭であります。武家政治の時代は祭祀も著しく衰えましたが明 治の御代に至り大いに復興せられ、大東亜戦争後は毎年恒例の神事として七月の第一
日曜を大祭日とし、それの一週間前より七日間継続して朝夕の祭典を執り行ない、最 終日に厳粛盛大のる風鎮大祭を斎行して居ります。
岩瀬の杜の瀧祭
当社の例大祭は毎年四月四日でありますがその前日の三日に、岩瀬の杜の沿岸を流れ る龍田川(現在の大和川)から生魚を捕獲してこれを唐櫃に納めて本社に持ち帰り、
翌四日の当日に神前に供し祭典終了の後に元の川に放魚する祭りで古くから伝わる神 事であります。
摂社並びに末社の御祭神
摂社は龍田比古神、龍田比売神二座であります。(本社の一段下神域の瑞垣内南側二 社)末社は同一瑞垣ない北側三座で、御祭神は上座は天照大御神と住吉大神、中座は
枚岡大神と春日大神、下座は今御前の社と称し高望王の夫人を祀っております。その 他境内に末社として白龍神社、龍田恵美須神社、三室稲荷神社、祖霊社である下照神
社があります。この他境外末社に神奈備神社があります。
付近の名所旧跡
御座ケ峯と龍田山
御座ケ峯は上古当社の御祭神が降臨せられたる霊地なりと伝承しており現在は三室山 の山嶺より東南凡そ壱粁離れた頂上の畑地の中央にありて松樹林となっております。
又龍田山は三室山に引き続きたる実に広大な山岳地帯を指したる地域の総称であり古 来龍田越などの峠もあって起伏多く往来に相当難所の山道であります。
三室山
当社の古い境内地で神奈備の三室山とも称し往昔より春は山桜に若葉の楓とツツジ、 秋は紅葉と風景の美を賞賛せられ飛鳥、奈良、平安朝時代には各地より参者遊客文人等の来集甚だ多く社頭は常に人影が絶えなかったと伝えられております
龍田川
古の龍田川は今の大和川で大和平野の諸川を集めて成れる河にして当地立野の里を流 れる流域の沿岸に楓樹多く下流の亀瀬まで約五、六粁を世人が龍田川と称し紅葉の名
所と謡はれておりました。
以上
(注)文中のtataliは、「瑞」の偏が「木」偏になったものです。又kasehiは、「峠 」の偏が「木」偏になったものです。 |
龍田神社「天御柱命、國御柱命 合 竜田比古神、竜田比女神」奈良県生駒郡斑鳩町龍田1-5-6 リンク 玄松子の記憶
龍田神社
由緒沿革
産土神、風宮龍田神社の御祭神は天御柱大神、国御柱大神の二荒魂と龍田比古大神、 龍田比女大神、陰陽二柱の皇神である。風雨を鎮め水難・疫病を防ぐ神と 楓・桜等
の四季を司る神を祀る。五穀豊穣、息災長寿天地萬有厄除の神である。延喜式神名帳 記載の龍田地主大神である。他に末社として十二社を祀る。
大和川の北岸、風光明眉な楓の竜田川の北東の神奈備、御廟山の南麓に鎮座し敬神の 中枢である。十代崇神天皇の御代に年穀の凶作が続いた時、帝自ら卜占をもって占い
、天神地祇を「朝日日照處、夕日日陰處」竜田小野である龍田山の聖地に大宮柱太敷 立鎮座された。たまたま聖徳太子(十六才)が法隆寺建立を企てられ橘の京から来ら
れて平群川(竜田川)の辺りに伽藍建設地を探し求められた。その時聖徳太子は椎坂 山で白髪の老人に顕化した竜田大明神に会い、まだらばと(斑鳩)で指示して貰った
地を法隆寺建設地とされた。即ち「こゝから東にほど近い処に斑鳩の里がある。そこ こそ仏法興隆の地である。吾また守護神となろう。」依って太子は法隆寺建立と同時
に御廟山南麓の地に鬼門除神として竜田大明神を移し祀られた。その后、法隆寺より 法施僧(別当坊)三十口(三十人)を給ひ、竜田三十講、平群四十八郷(当時の平群
四十八郷は現在の生駒郡、郡山市も含む)の産土神として荘厳なる祭儀が執り行なわ れた。(聖徳太子伝私記)それで法隆寺は竜田神社の社務を管理してきたもので、神
社の由緒、祭礼、神田等法隆寺の記録に出ている。
中世の有様は「嘉元記」に竜田参りや、田楽、猿楽について詳しく伺われる。一説に 能楽発祥の地とする学者もある。中世は現在の建物の外に、東には塔と経堂があり、
門前、北坊、新坊、かや坊、法心坊、惣坊、東之坊、等各坊屋敷が集っていた。拝殿 の東側には神仏分離の時代に醍醐へ持って行かれた胎金堂(大日堂)があった。楼門
の西には北房、いなばや、与三郎屋、その他鐘楼、とかり屋、みさと屋、観音堂、高 安座等十二座等あり、荘厳、広大な規模を持った神宮寺であった。(神社古図)歴代
天皇の崇敬殊に厚くしばしば勅願の御寵遇を受けたのもむべなるかなといえる。古来 より竜田は神代の竜田として紅葉の勝地でもある。萬葉の御代よりかくれた静かなこ
の旧蹟を、この神社を訪れる文人、歌人の雅客は絶えない。 |
龍田比古龍田比女神社二座[タツタヒコタツタヒメ]
龍田神社「天御柱命、國御柱命 合 竜田比古神、竜田比女神」法隆寺建立と同時に御廟山南麓の地に鬼門除神として竜田大明神を移し祀った。奈良県生駒郡斑鳩町龍田1-5-6
龍田大社摂社龍田比古神社「龍田比古大神」奈良県西和市三郷町大字立野字竜田1701-1
龍田大社摂社龍田比売神社「龍田比賣大神」前掲
徃馬坐伊古麻都比古神社二座[イコマニイマスイコマツヒコ](並大。月次新甞。) リンク 古代であそぼ
伊古麻都比古神社「伊古麻都比古神、伊古麻都比賣神、氣長足比賣命、足仲津比古命、譽田別命、葛城高額姫命、息長宿禰王」奈良県生駒市壱分町1527-1
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往馬坐伊古麻都比古神社
往馬大社略由緒
神社名
古い書物や古文書によると神社名は、往馬坐伊古麻都比古神社、胆駒社(いこましゃ )、往馬大社、生馬大明神、生馬八幡宮、行馬社、生馬神社、生駒大宮、等多様であ
りますが現在は往馬坐伊古麻都比古神社と往馬大社の二通りに称しています。
御祭神
伊古麻都比古神(産土大神)、伊古麻都比賣神(産土大神)、気長足比賣尊(神功皇 后)足仲津都比古神(仲哀天皇)、譽田別尊(応神天皇)、葛城高額姫尊(神功皇后
の母君)気長宿称王尊(神功皇后の父君)、この他にも境内に摂社十四社、境外に摂 社六社が合せ祀られています。
神社の歴史
当社の正確な創立年代は明らかではありませんが、大神神社や石上神宮と同じように 生駒山を神体山(御神体)として祀られた日本で最も古い形態の神社でありますので
、おそらくこの生駒谷に人々が住み始めた太古の頃から生駒地方の守り神としてこの 地に存在いたしました。歴史書物の中で往馬大社に関する最も古いものは、『総国風
土記』の中の「伊古麻都比古神社、雄略三年(四五八年)」とあるものです。また、 正倉院文書の、『大倭國正税帳』(七三〇年)や『新抄格勅符抄』(八〇六年)にも
その記載が見られ、奈良時代より崇敬厚き神社でありました。更に『延喜式』(九二 七年)には「往馬坐伊古麻都比古神社二座 并大月次新嘗」とあって、当時の日本全
国の官社(二、八六一社)の中でも最高位の官幣大社(案上幣、一九八社)に列せら れていました。当社の御祭神は本来、伊古麻都比古神、伊古麻都比賣神の二柱でござ
いましたが、その後鎌倉時代の八幡信仰の隆盛に伴い五柱の神を合祀して、本殿御祭 神は現在の七柱となりました。
火燧木(ヒキリギ)の神
平安朝の書物である『北山抄』や『元要記』、『亀相記』等には「火燧木神」の記載 が見られ、伊古麻都比古神、伊古麻都比賣神は古くから火の神としても尊ばれていま
した。我国最大の祭祀であり、歴代天皇の御即位の大祀である踐祚大嘗祭に用いられ る火燧木は、代々往馬大社より献上したもので、今上陛下の大嘗祭にも、橿原神宮で
行われた紀元二、六〇〇年祭にも当社の火燧木が御使用されました。このような歴史 の元に、毎年十月十日十一日の両日に執り行なわれる往馬大社の御例祭(火神祭)は
壮大な火祭として、市内近郊はもとより遠方からも多数の参拝者があり、また古くか ら龍田大社の風神祭、廣瀬神社の水神祭と共に朝廷の深い信仰を受けてまいりました。 |
平群石床神社[ヘクリノイハトコ](大。月次新甞。)
石床神社[・・いわとこ]「釼刃石床別命」奈良県西和市平群町大字越木塚字井戸ノ上734
伊古麻山口神社[イコマノヤマクチ](大。月次新甞。)
生駒山口神社「素盞嗚命、櫛稻田姫命」奈良県西和市平群町大字櫟原字滝の宮5-1 古代であそぼ
平群神社五座[ヘクリ](並大。月次新甞。)
平群神社「大山祇神」奈良県生駒郡平群町大字西宮字城山617 古代であそぼ
久度神社[クト]
久度神社[くど]「品陀和氣命 配 天兒屋命、底筒男命、久度神」奈良県北葛城郡王寺町久度4丁目9-9 大和の風神水神
久度神社
由緒書
久度神社は昔よりその名京畿地方に隠れもなき古社でありまして、その創祀の年代 は古く奈良朝以前にかかり、歴代皇室の崇敬篤く、殊に第五十代桓武天皇の延暦二年
二は特に官社に列せられ、従五位下という神位を賜りましたことが、続日本紀に記戴 されその後毎年朝廷より幣帛をささげられ延暦十三年都を奈良から京都に遷され久度
の神を始めその他平素から信仰の篤かった二、三の神神を皇居の近くに遷されて新た に平野神社を建てられました。これ実に今から約一千百八十年の昔であります。これ
が京都の元官幣大社平野神社であり、その第二座の祭神が久度の神で出あります。平 野神社は京都守護の神として、ますます皇室の御尊崇をあつめられ久度の神の神位も
次第に高められて、白河天皇の永保元年には正一位に進められた。
中世以降京都に遷られた久度の神は皇居に近く、ますます字上下の尊信を得て栄え ましたが、一方、大和に残存の当久度神社は、何分京都より離れた地のため朝廷直接
の御崇敬は漸く遠ざかりましたが、なお厳然と名高い古社として民間遠近の尊信は絶 えませんでした。平安朝の初めに日本国中の神社を調査された延喜式神名帳の中にも
その名が記されています。
その後約一千年の間、時により多少の変遷興廃はありましたが、昭和十七年橿原神 宮の古殿をもつて拝殿・瑞垣・斎館・中門等の造営により面目を一新し、昭和四十三
年四月十日には京都平野神社からはるばる久度の神を迎え、基のみ座である久度神社 の本殿にお祀りする。 |
平群坐紀氏神社[キノウチカミ](名神大。月次新甞。)
平群坐紀氏神社[へぐりにますきし]「都久宿禰、天兒屋根命」奈良県西和市平群町大字上庄字辻ノ宮3 古代であそぼ
平群坐紀氏神社
平群坐紀氏神社由来
祭神 天照大神、天児屋根命、都久宿祢、八幡大菩薩。
例祭 十月 第一日曜
紀氏は紀伊国を本拠とし、大伴とも関係の深かった古代豪族で、紀角宿祢は平群木菟 宿祢(都久)の弟である(古事記)また平群町三里の三里古墳は和歌山県紀の川沿岸
に分布する石棚を有した古墳と同形式であり紀伊との関係がうかがわれる。当社は俗 に辻の宮、椿の宮と称し、江戸時代初期の石灯籠には春日大明神と刻んである。 |
猪上神社[ヰカミ]
猪上神社[いがみ]「天足彦命、国押人命」 奈良県西和市平群町大字信貴畑字信貴山2260
船山神社[フナヤマ]
船山神社「船山神、天津兒屋根命」奈良県西和市平群町大字三里字船山475
御櫛神社[ミクシ]
御櫛神社「天津兒屋根命」奈良県西和市平群町大字椹原字金垣内493 古代であそぼ
神岳神社[カムヲカ]
神岳神社[かみおか]「大己貴神、須佐之男神」奈良県生駒郡斑鳩町神南字上ノ堂687
雲甘寺坐楢本神社[ナラモト]
雲甘寺坐楢本神社[うんかんじにますならもと]「菊理姫命」奈良県西和市平群町大字梨木字宮脇298 古代であそぼ
廣瀬郡[ヒロセ]:五座 大一座 小四座
廣瀬坐和加宇加賣神社(名神大。月次新甞。) リンク とんでもとらべる
廣瀬神社「若宇加能賣神 配 櫛玉命、穗雷命」奈良県西和市郡河合町川合 玄松子の記憶
広瀬神社由緒書
祭神 主神 宇加能売命。相殿 櫛玉命 。穂雷命。
主神若宇加能売命は、別名を、豊宇気比売大神(伊勢外宮)宇加之御魂神(稲荷神 社広瀬大忌神とも呼ばれ、総て同神である。龍田風神(龍田大社)と深いご縁があ
る
神徳 広瀬神社の鎮座地は日本書紀に「広瀬乃河曲」、延喜式祝詞には「広瀬乃川合 」ときされており佐保川は初瀬川飛鳥川曽我川葛城川高田川等大和盆地を流れる総て
の河川が一点に合流する地に祀られていることから、御主神は水の守り神で山谷の悪 水を良水に変え河川の氾濫を防ぐ神であり風雨を調和し苗稼を浸潤して、五穀の豊穰
を守ることから朝廷を始め万民の食物を守る御膳神である。又広瀬は、屋船豊受姫神 ともよび家屋を鎮め奉る宅神で養蚕をも守る神として古来より崇敬が厚い。五穀豊穣
、水難鎮護、産業興隆、河川交通安全、安産、除災招福等、多方面に渡る御神徳があ る。
創建 崇神天皇九年(前八九年)、広瀬の河合の里長に御神たくがあり、一夜で沼地 が陸地に変化し橘が数多く生えた事が天皇に伝わり、この地に社殿を建てまつられれ
る様になる(当社延喜)。日本書紀天武天皇四年四月十日(六七五年)には、小錦中 間人連大蓋を遣わし、大山中曾根連韓犬を斉主として、大忌神を広瀬の河曲に祭られ
た事が記されていて、これが毎年四月四日に行われた大忌祭の始まりと伝えられる。 |
讃岐神社[サヌキ] リンク 讃岐神社 in かぐや姫ロマン
讃岐神社「大國魂命、若宇加能賣命、大物主命」奈良県北葛城郡広陵町三吉328
讃岐神社
由緒書
当社の祭神は(三代実録)元慶七年の条に正六位上散吉大建命、散吉伊能城神と見 えるが当社伝では大国魂神と倉稲魂神、大物主神を奉祀するといふ。別に広瀬大明神
と称するのは大物忌神と同神の広瀬坐若宇加之売神の分霊を勧請して祀つたことに因 る。
慶長十九年(1611)正月火災後の現本殿は桧皮葺(現在鉄板葺)三間社でその前 方の切妻造り本瓦葺の拝殿には掲額が多く中でも三十六歌仙偏額六面(別保管)は元
禄十六年六月(1688)海北友賢筆の張り絵を付した貴重な歌仙絵である。 |
櫛玉比女命神社[クシタマヒメノミコト]
櫛玉比女命神社「櫛玉比女命」大日本史では、饒速日命の妃である御炊屋姫とする。奈良県北葛城郡広陵町弁財天399 とんでもとらべる
櫛玉比女命神社
由緒書
延喜式に言う「広瀬五座」の一つで、いわゆる式内社の格を誇る。その位置は前方 後円墳の後円部に当たり、埴輪の残欠を伴出する等祭祀の遺跡として注目される。祭
神櫛玉比女命櫛玉彦命に配されるが「大日本史」では、饒速日命の妃出ある御炊屋姫 を当社祭神としている。現在の本殿は春日造り桧皮葺を銅版葺に改めその前方に入母
屋造り、浅瓦葺、正面千鳥破風付きの拝殿を設けた江戸期の建築出ある。 |
穂雷命神社[ホノイカツチノ]
穂雷神社[ほのいかづち]「手力男命、天照大神、武雷神、保沼雷神、栲幡千千姫命」奈良県北葛城郡広陵町安倍733
於神社[ウヘ]( )
於神社[うえの]「天兒屋根命 配 天照皇大神、品陀和氣命」奈良県北葛城郡広陵町大塚667
廣瀬神社摂社水分神社「水分神」奈良県西和市河合町川合99
葛上郡[カツシャウ]:十七座 大十二座 小五座
鴨都波八重事代主命神社二座[シモツカモノ・・コト・](並名神大。月次相甞新甞。) 神社のHP
鴨都波神社[かもつわ]「積羽八重事代主命、下照姫命」奈良県御所市大字御所513 玄松子の記憶
鴨都波神社
由緒
金剛、葛城の山麓は古代の大豪族、鴨族の発祥地であります。その末流は全国にひろ がり、鴨(加茂)の郡名だけでも、安芸、播磨、美濃、三河、佐渡の国々にみられ、
郷名に至ってはさらに多く、また京都の加茂大社をはじめ、全国に分布している多数 の鴨社も、すべて源をこの地に発するものであります。
この葛城の地に鎮まる鴨社としては、本社のほかに、高鴨神社(上鴨)御歳神社(中 鴨)との三社があります。
本社付近一帯は鴨都波遺跡と呼称され、神社はその遺跡の上に鎮座しています。本社 の境内地を中心に弥生時代の土器や石器、竪臼などの農具が多数出土し、高床式の住
居跡も発掘されていますが、弥生時代の中期始め、鴨の一族が水稲農耕を営み神社付 近に住みついた事を表しております。
本社の主祭神は古記に、鴨都味波八重事代主神(かもつみわやえことしろぬしのかみ )と記されております。「代主」は田の神の古語、「鴨都味波」は鴨の水端(みは)
、すなわち鴨の水辺の意、「八重事」はしばしばの折り目という形容で、つまり「鴨 の水辺で折り目ごとに祀られる田の神」という御神名であります。
金剛山に源を発する葛城川と葛城山に源を発する柳田川が合流するこの地が、潅漑に 最も適した地として、田の神を鎮め祀ったのに始まります。
天孫降臨に際して、父の大国主命(桜井市の大神神社御祭神)に代わって国譲りを決 定した大神として、御祭神の事代主命の名がみえます。また、事代主命の御子のヒメ
タタラ五十鈴媛命は神武天皇の皇后、五十鈴依媛命は綏靖天皇の皇后に天日方命から 加茂君が出ておられます。民族学を研究されておる鳥越憲三郎先生は、葛城王朝の存
在と「天孫降臨は葛城王朝に鴨族が併合されたこの地の歴史的事実を伝承されたもの 」そして葛城王朝の、神武、綏靖、安寧の三代の天皇の皇后となったのは、事代主神
を奉斎してこの地を領地していた鴨王の娘であるといわれる由縁であります。そうし た由縁から、その後も本社の御祭神は皇室の御守護神とされ、宮中八神の一つとして
崇拝されて来ました。
古くは神武天皇の大和平定のとき一族はヤタガラスと称されて功績をあげ、また神功 皇后の朝鮮征伐からの御帰還にあたっては、謀反があって船を難波に入れないとき、
事代主神の御守護により無事に大和へお迎え申し上げることが出来ました。そのとき の御神託に、「事代主尊、おしえてのたまわく、吾が御心の長田国に祠れと」(日本
書紀)とみえますが、これが神戸市の名社、長田神社に本社の御祭神が祀られたのは そのためであります。さらに壬申の乱に大海人皇子(天武天皇)を御神託によって戦
勝にお導きしたのも事代主神であります。多くの輝かしい御武勲をおたてになったこ とから、田の神におわしますことが忘れられて来ましたが、稲作を御加護される神様
であります。
延喜の制では名神大社に列し、月次、相嘗、新嘗には宮中よりの官幣に預かって来た 由緒ある名社であります。宮司謹白 |
葛木御歳神社[カツラキノミトシ](名神大。月次新甞。) リンク 神社のHP
葛木御歳神社[かつらぎみとし]「御歳神 配 大年神、高照姫命」奈良県御所市大字東持田字御歳山269
葛木御歳神社
由緒
御本社の背後に御年(みとし)山という美しい神体山があり、古く御祭神は御年山に お鎮まりになって、金剛山の扇状地にひらけた稲田を御守護された神であります。
御神名のトシは穀物、ことに稲をさす古語で、稲の神として古くから知られ、朝廷で 豊作祈願のために行われた年頭の祈年祭(としごひのまつり)には、まず本社の御歳
神の名が読みあげられました。その由緒について、『古語拾遺』には下のように記さ れています。むかし、神代に大地主(おおとこぬし)神、田つくりましし日に、牛の
シシをもて田人に食わしめたまいき。時に御歳神の子、その田に至(き)まして、饗 (みあえ)に唾(つば)きて還りまして、ありさまを父に告げましき。御歳神、いか
りまして、イナゴをその田に放ちたまいしかば、苗の葉たちまちに枯れ損なわれて、 篠竹のごとなりき。ここに大地主神、片巫(かたかんなぎ)・肱巫(ひじかんなぎ)
をして、その由を占求(うらな)わしめたまいしに、御歳神たたりをします。宜しく 白猪・白馬・白鶏(しろかけ)を献りて、その怒りをなごめまつるべしともうすに、
教えのまにまに謝(の)り奉(まつ)りますときに、御歳神答えたまわく、実(まこ と)に吾が意(こころ)ぞ。宜しく麻柄(あさがら)をもてカセをつくりてカセぎ、
すなわちその葉をもて掃い、天押草(あめのおしぐさ)もて押し、烏扇(からすおお ぎ)もて扇ぐべし。もししかして出で去らずば、宜しく牛の宍をもて溝口におき、男
茎(おはせ)の形を作りて加え、(ここでいう「牛の宍」「男茎」とは、男・女の性 の印を意味する古語であって、これは、その神の怒りを鎮め、陰陽の和合を、称えた
ものである。)ツスダマ・ナルハジカミ・クルミ、また塩をもてその畔(あ)にまき おくべしとのたまいき。すなわち、その教えのまにまにせしかば、苗の葉また茂りて
、年穀豊稔(たなつものゆたか)なりき。これ今、神祇官に白猪・白馬・白鶏もて御 歳神を祭ることの縁(もと)なり。
以上のことの意味は、人々が、「土」とのかかわりあいにおいて、稲作する時、その 耕作に役立つ午(うま)等(農耕器具等の生産手段)を大切にし、心を清くして、農
耕等(如何なる仕事においても)をすべきことを、教えたものであります。このこと を、別に解釈すれば人と「土」(自然)とのかかわり方の方法等を、教えたものであ
り、自然との結合、人と人との結合(陰陽和合)をたたえたものであります。 古代における朝廷でも、祈年祭には、この御歳神社にだけ、白猪・白馬・白鶏を、献
じられたのも、上のような意味あいにおいてであります。
この御歳神社では、昔は、祈年祭の前日の二月二日、今では、五月三日に、御田祭り が執り行われ、諸々の神事と共に参詣者には、杉葉を守札に包んだ蝗除け等の護符を
配布しています。
なお、古書の記録では、仁寿二年(八五二年)には、大和国では、最高の神とされ、 正二位の神位を授かり、延喜の制では、名神大社に列した神社として尊ばれた古社で
あります。以上 |
葛木坐一言主神社[ヒトコトヌシ](名神大。月次相甞新甞。) リンク 古代であそぼ リンク2 玄松子の記憶
葛城一言主神社[かつらぎひとことぬし]「葛城一言主大神」奈良県御所市大字森脇字角田432
葛城一言主神社
由緒
本社は雄略天皇が葛城山で狩りをされたとき、はじめて顕現された神を奉斎するもの であります。その次第が『日本書記』に次のように記されています。
天皇、葛城山にかりしたもう。たちまちにタケタカサヒトを見る。来りてタニカイに 望めり。かおすがた天皇にあいにれり。天皇これ神なりと知しめせども、なおコトサ
ラに問いてのたまわく、いずこのキミぞ。タケタカサヒトこたえてもうさく、アラヒ トの神ぞ、まずキミのミナをなのれ、しかるのちに言わん。天皇答えてのたまわく、
あれはこれ幼武尊なり。タケタカサヒトつぎになのりてもうさく、ヤツガレはこれ一 事主神なりと。ついにともにかりたのしむ。一鹿をはしりおいて、あいゆずりてやを
はなち、クツワをならべて馳はす。コトバいやいやしくつつしみ、ヒジリのごとくあ り。ここに日くれてかりやみぬ。神、天皇をおくりたまいて、クメのカワに至る。
このように、天皇と同じお姿で顕現され、鹿狩りをともに楽しまれた神であります。 『古事記』も内容は同じでありますが、「あはマガゴトも一言、ヨゴトも一言にいい
はなつ神、葛城の一言主の大神なり」と答えておられる。そのためか里びとは俗に「 いちごんさん」とお呼び申し、一言の願いであれば何ことでもお聞きとどけ下される
神として古くから親しまれ、「無言まいり」の神として広く信仰されています。
御鎮座のこの高宮丘は、第二代綏靖天皇の宮址のあったところで、本社から少し北の 丘辺に宮址の碑が立っています。そして大臣を歴任した巨勢・平群・蘇我各氏の祖に
あたる葛城氏の本宗の邸宅もこの地にあり、仁徳天皇の后で履中・反正・允恭三代の 天皇の母后となられた磐の媛の生育された地でもあります。
その高宮丘の一角にある御鎮座の地を、古くカミタチといいましたが、それは神が降 り立ったことからの地名であります。『延喜式』では名神大社に列し、月次・相嘗・
新嘗には官幣に預かってきましたが、伝教大師も入唐にあたって本社を祈られたほど の霊験高き御祭神が顕現されたところであり各地の「一言主神社」の総本社でもあり
ます。宮司謹白 |
多太神社[タタ](鍬靫)
多太神社[おいだ]「大田田根子命」 奈良県御所市大字多田字正神口304
長柄神社[ナカラ](鍬靫) リンク 古代であそぼ
長柄神社「下照姫命」西方から銅鐸等が出土している。神武紀の[臍見の長柄丘岬]に比定される。奈良県御所市大字名柄字宮271
長柄神社
由緒
長柄の地名は長江(ながえ)が長柄(ながえ)になり、音読して長柄(ながら)にな った。長江はゆるやかく長い葛城山の尾根(丘陵)を意味し、ナガラは急斜面の扇状
地に残った古語であるともいわれる。
この神社の祭神は、下照姫命であり、俗称を姫の宮といわれている。
本殿は昭和三十三年三月二十日、奈良県重要文化財に指定された。一間社春日造り、 桧皮葺、丹塗の建物である。細部に禅宗様(唐様と称した手法)が見られる優秀な建
築である。ここに棟札(むなふだ)が保存されていて、最古のものは正和元年(13 12年)鎌倉時代花園天皇の代にあたり、以下十七枚に及んでいる。
建築様式上から正和まで古く見ることは困難であるが、室町中期の頃と推定すること ができる。軒から屋根に及ぶ材料が新しいのは、後の改修によるものとしても、その
他の部分も風蝕が極めて少ないのは、恐らく覆屋で保護されていた為であろうといわ れている。
また、手水屋は朝原寺から移したものということである。 |
巨勢山口神社[コセノヤマクチ](大。月次新甞。)
巨勢山口神社[こせやまぐち]「伊弉諾尊、伊弉冉尊」奈良県御所市大字古瀬字高社303
葛木水分神社[カツラキノミコマリ](名神大。月次新甞。)
葛木水分神社[かつらぎみくまり]「天水分神」奈良県御所市大字関谷字小原248
葛木水分神社
由緒
本社は御所市関屋に位置し天水分神、国水分神をおまつりしている式内の由緒深い神 社であります。大和の国には古くから、吉野・宇陀・都祁・葛木の四水分社があり、
本社はその一つで、御祭神の水分神は田畑の潅漑を司る、水にちなんだ農業神であり 、尊信も厚く貞観元年(859)正月二七日には正五位下に叙せられています。本殿
は春日造りで、桁六尺五寸、拝殿は桁梁行が三間、口一間半であります。 |
鴨山口神社[カモノヤマクチ](大。月次新甞。)
鴨山口神社「大山祇命」奈良県御所市大字櫛羅字大湊2428 玄松子の記憶
鴨山口神社
由緒
葛城山麓の扇状地、櫛羅大港に位置する本社は、古くから朝廷に皇居の用材を献上す る山口祭を司った由緒深い神社であります。
御祭神は大山祇神、大日霊命、御霊大神、天御中尊をお祀りしています。
「延喜式神名帳」には、山口社は十四社あるがその内葛上郡の鴨山口神社が本社であ るとされており、即ち式内の大社として格式高い神社であります。
本殿は春日造桧皮葺(八尺に七尺)であり、拝殿は瓦葺(五間に二間)。本殿に安置 されている大日霊貴命坐像・御霊大神坐像は、国の重要文化財に指定されております。 |
高天彦神社[タカマヒコ](名神大。月次相甞新甞。) リンク 葛城山および葛城古道 リンク2 古代であそぼ
高天彦神社「高皇産靈神」奈良県御所市大字高天158
高天彦神社
由緒
本社は大和朝廷に先行する葛城王朝の祖神、高皇産霊尊を奉斎する名社であります。神話では天照大神の御子の天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)に、本社の御祭
神の娘の栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)が嫁がれ、その間にお生まれに なったニニギノミコトが高天原からこの国土に降臨されます。その天孫降臨にあたっ
て、国つ神の征伐に赴く武士の派遣から、天孫の降臨命令まで、すべて本社の御祭神 がお世話申し上げたのであります。
日本民族が太古から神々の住み給うところと信じていた「高天原」も、実は御祭神の 鎮まるこの高天の台地であります。
御本社の背後には美しい円錐状の御神体山がそびえていますが、社殿ができる以前は 、この御神体山の聖林に御祭神を鎮め祀っていました。古杉のそびえる参道は北窪・
西窪の集落に通じていますが、そこがかつての葛城族の住地であります。彼らは背後 にひろがる広大な台地を、神々のいますところと信じて「高天原」と呼び、その名称
が神話として伝えられてきたのです。
葛城族は弥生時代中期に、現在の御所市柏原の地に移って水稲農耕を始めました。そ して葛城川流域の鴨族と手を結んで部族国家を形成しました。神武天皇が橿原宮で帝
位につかれたというのも、この柏原の地であります。
日本書記に、腋上(わきがみ)のホホマの丘に登りまして、国のかたちをめぐらしお せりてのたまわく、あなにえや、くにみえつ。うちゆふのマサキクニといえども、な
おアキツのとなめせる如くあるか。これによりて始めてアキツシマのナあり。とある 腋上は御所市の平野の古称で今でも伝わり、ホホマ丘も丘裾に本馬(ほんま)の地名
を残しています。国号のアキツシマもこの地に最初の王朝が築かれたことに由来しま す。
葛城王朝は神武天皇から開化天皇に至る、九代で滅びますが、竹内宿祢によって復興 し大臣は葛城一族が独占して平群・巨勢・蘇我氏へと世襲されました。
これら葛城一族の祖神を奉斎することから、清和天皇の貞観元(八五九)年に神位従 二位に叙せられ、延喜の制では最高の名神大社となって、月次・相嘗・新嘗の祭りに
は官幣にあずかってきた古社であります。 |
葛木大重神社[カツラキ・・]
駒形大重神社[こまがたおおしげ]「駒形神」奈良県御所市大字楢原字石川1662 玄松子の記憶
大穴持神社[オホアナモチ]
大穴持神社[おおあなもち]「大己貴命」本殿はない。拝殿背後の玉垣奥のカシとツツジの木を神体として祀る。奈良県御所市大字朝町字宮山112
大倉比賣神社[オホクラ](一名雲櫛社。)
大倉姫神社「大倉比賣神」奈良県御所市大字戸毛1610
大倉姫神社「大倉比賣命」奈良県御所市大字古瀬377
大川神社「タカオカミ神」奈良県御所市西佐味
間神社(ほほま)「サワリの神」奈良県御所市柏原
高鴨阿治須岐託彦根命神社四座[タカゝモノ・タカ・](並名神大。月次相甞新甞。)
高鴨神社[たかがも]「阿治須岐高彦根神 配 下照比賣命、天稚彦命」奈良県御所市大字鳴神字捨篠1110 玄松子の記憶
高鴨神社
由緒
この地は大和の名門の豪族である鴨の一族の発祥の地で本社はその鴨族が守護神とし ていつきまつった社であります。
『延喜式』神名帳には「高鴨阿治須岐詫彦根命(たかかもあじすきたかひこねのみこ と)神社」とみえ、月次・相嘗・新嘗の祭には官幣に預かる名神大社で、最高の社格
をもつ神社でありました。清和天皇貞観元(八五九)年正月には、大和の名社である 大神神社や大和大国魂神社とならんで従二位の御神階にあった本社の御祭神もともに
従一位に叙せられましたが、それほどの由緒をもつ古社であります。 弥生中期、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の
岸辺に鴨都波神社をまつって水稲生活をはじめました。また東持田の地に移った一派 も葛木御歳神社を中心に、同じく水稲耕作に入りました。そのため一般に本社を上鴨
社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになりましたが、ともに鴨一 族の神社であります。
このほか鴨の一族はひろく全国に分布し、その地で鴨族の神を祀りました。賀茂(加 茂・賀毛)を郡名にするものが安芸・播磨・美濃・三河・佐渡の国にみられ、郷村名
にいたっては数十におよびます。中でも京都の賀茂大社は有名ですが、本社はそれら 賀茂社の総社にあたります。
『日本書紀』によると、鴨族の祖先のヤタガラスが、神武天皇を熊野から大和へ道案 内したことが記されています。そして神武・綏靖・安寧の三帝は鴨族の主長の娘を后
とされ、葛城山麓に葛城王朝の基礎をつくられました。 この王朝は大和・河内・紀伊・山城・丹波・吉備の諸国を支配するまでに発展しまし
たが、わずか九代で終わり、三輪山麓に発祥した崇神天皇にはじまる大和朝廷によっ て滅亡しました。
こうした建国の歴史にまつわる由緒ある土地のため、鴨族の神々の御活躍は神話の中 で大きく物語られています。高天原から皇室の御祖先であるニニギノミコトがこの国
土に降臨される天孫降臨の説話は、日本神話のピークでありますがその中で本社の御 祭神であるアジスキタカヒコネノカミ・シタテルヒメノカミ・アメワカヒコ、さらに
下鴨社の事代主神が、国造りの大業に参画されています。
御本殿にはアジスキタカヒコネノカミを主神とし、その前にシタテルヒメノカミとア メワカヒコノミコトの二神が配祀され、西神社には母神のタギリビメノミコトが祀ら
れています。古くはアジスキタカヒコネノカミとシタテルヒメノカミの二柱をまつり 、後に神話の影響を受けてシタテルヒメの夫とされたアメワカヒコ、、また母神とさ
れたタギリビメノを加え、四柱の御祭神となったものと考えられます。
現在の御本殿は室町時代の三間社流造の建物で、国の重要文化財に指定されています 。なお東神社は皇大神・住吉神・春日神をお祀りしています。 |
葛下郡[カツケ]:十八座 大十三座 小五座
葛木倭文坐天羽雷命神社[シトリ・ ・ハツチノ](大。月次新甞。)
葛木倭文坐天羽雷命神社[かつらぎしずりにいますあまはいかづちのみこと]「天羽雷命」奈良県北葛城郡当麻町大字加守1045
葛木倭文坐天羽雷命神社
倭文神社 衣料の始祖、倭文は染織の儀、紡織、養蚕、メリヤス等すべて糸を生業 とする人は是の大神に帰依して事業の隆昌を賜るべし。
加守神社 産育の始祖その職号を蟹守と言う、カニは香泥即ち胎児の垢、後世掃部 、加守、狩森、鴨田等の名あるはすべて蟹守の転訛、産科育児等にたづさわる人は祖
神の居ます加守の地を第二の故郷として、しばし帰参去るべし。 |
片岡坐神社[カタヲカ](名神大。月次新甞。)
片岡神社「天照皇太神、表筒男命、中筒男命、底筒男命、品陀別命、清瀧命」奈良県北葛城郡王寺町大字王寺1827 古代であそぼ
長尾神社[ナカヲ](大。月次新甞。)
長尾神社「水光姫命、白雲別命」奈良県北葛城郡当麻町大字長尾471 古代であそぼ
長尾神社
由緒書
延喜式神名帳(平安時代)に「葛下郡長尾神社、大、月次、新嘗」とでている式内 の旧社です。尚六国史の一である三代実録に、「貞観元年己卯(八七五)正月二十七
日大和国従五位下、長尾神社従五位上」とあり、今から千百年前には、この地に鎮座 されたことが明らかで神階はその後寛平九年(897)より弘安四年(1281)ま
での間に九階進昇のことがあり、弘安四年には正二位に江戸時代には正一位にまで進 まれたと社傳に伝えている。
御祭神は神武天皇ご東征に際し、吉野川上村井光方面にご巡幸の時、井戸の中から 現れたとされている水光姫命であり、古事記や日本書紀では、光って尾が生じていた
と記されている。新撰姓氏録では「吉野氏の祖先で、天白雲別命の娘、豊御富登であ り、水光姫の名は神武天皇が授づけられたもの」としている。長尾神社の社傳では「
この水光姫命が、応神天皇の御代に当麻町竹内の三角岩に降臨され、子孫の加彌比加 尼に命じて長尾に祀らされたものでお姿は白蛇であつて、今、神社の東北に藤をもつ
て覆われている御陰井の藤の花はそれである。
嘉吉三年(1443)王寺町放光寺縁起によれば「長尾神社は放光寺の鎮守神で、 葛下郡全体を当社に献じられた。」としていますが、長尾神社の名称の由来を説明し
て、即ち「城上郡(今の桜井市のあたり)の美女を嫁にされた神様があったが、一向 に姿を現されないので、嫁の父が、神様の着物のすそに、長い赤糸を取り付けて、そ
の後をつけていった所、長尾宮には入った」といふ話であります。水光姫命は豊御富 とも申され、豊かな吉野川の水を守られる水神であり、また井戸の神様でもあります
。父神が天より降臨された天白雲別命であるというのは、白雲が雨をもたらし、雷に もなるところから、水の根源を現したものであります。この点で、農耕を始め、種々
の産業を守る御神徳をおもちであります。 |
石園坐多虫玉神社二座[イハソノノ](並大。月次新甞。)
石園坐多久虫玉神社[いそのにますたくむしたま]「建玉依比古命、建玉依比賣命 配 豐玉比古命、豐玉比賣命」第三代安寧天皇片塩浮穴宮跡といわれる浄池に祭祀されている。奈良県大和高田市片塩町15-33
石園座多久虫玉神社
由緒・沿革
当神社は、第三代安寧天皇片塩浮穴宮跡といわれる浄池に祭祀され、第十代崇神天皇 の御勅祭に預り給い、延喜の制には大社に列し、並大・月次・新嘗案上の官幣に預り
、神護元年神戸を領し、貞観元年神階従五位上に叙せられ従一位は園の大暦にみえ、 享保ニ年正一位に進み給ふ。元和ニ年迄は、葛下郡八十六ヶ村総社(郷宮)でありま
した。
明治二四年内務省より古社保存資金下賜、昭和四年には宮内省より大礼建造物の一部 下賜、次いで昭和五年の営繕に際し、同年八月伊勢内宮御正殿の御梁・御桁、其の他
古殿舎材の御下賜があり、昭和七年天皇陛下より幣帛料の御奉納あり、往昔より皇室 の御崇敬、国家の待遇厚く、地方の霊社として氏子崇敬者の尊信浅からず、昭和六年
県社に列せられ、昭和四十一年には、神社本庁の別表に掲げる神社に加列されました 。 |
調田坐一事尼古神社[ツキタノ](大。月次新甞。)
調田坐一事尼古神社[つくだにいますひとことねこ]「一事尼古大神、事代主大神」 奈良県葛城市新庄町疋田402
調田坐一事尼古神社
1御祭神 一事尼古大神、事代主大神
1御由緒 創立年代は不詳ですが、延喜式神名帳に記され古く奈良朝以前から祀られ た由緒ある式内大社で、近郷村民の崇敬神社として厚い信仰を集めています。
1御神徳 一事尼古大神の尼古とは高貴な男神を示し、古来一つの願い事なら必ずか なえてもらえる一願成就の神様として崇敬されています。事代主大神は農耕の発展を
始め、商工業の守護神、厄除け開運、学業成就に御神徳厚 い神様です。
1四季の祭り
3月6日 祈年祭、おんだ祭り
7月15日 夏祭り、夏越の祓いの祭り
10月八日 御例祭、17日秋祭り神幸祭
12月6日 新嘗祭、新穀感謝祭 |
金村神社[カナムラ](大。月次新甞。)
金村神社「大伴金村公」奈良県葛城市新庄町大屋213
葛木御縣神社[カツラキノミアカタ](大。月次新甞。)
葛木御縣神社[かつらぎみあがた]「劔根命」祭神は初代の葛城国造。奈良県葛城市新庄町大字葛木68
深溝神社[フカミソ]
鹿島神社「武甕槌命」奈良県香芝市下田西1-9-3
貴舟神社「罔象女命」奈良県西和市上牧町上牧4179
火幡神社[ホハタ](名神大。月次新甞。)
火幡神社[ほばた]「天兒屋根命、息長帶比賣命、譽田別命、玉依姫命、天照皇大神」奈良県北葛城郡王寺町畠田640
志都美神社[シツミ]
志都美神社[しづみ]「天兒屋根命、譽田別命、底筒之男命」奈良県香芝市今泉592
伊射奈岐神社[イザナギ]
伊邪那岐神社「伊邪那岐命」奈良県北葛城郡上牧町下牧512
當麻都比古神社二座[タイマノ]
當麻山口神社摂社當麻津日古神社[たいまやまぐち][たいまつひこ]「麻呂古皇子、日子坐王」麻呂古皇子と妃を祀ったとの有力な説がある。奈良県葛城市當麻町當麻1081
當麻山口神社[タイマノヤマクチ](大。月次新甞。)
當麻山口神社「大山祇命、天津彦火瓊瓊杵命、木花佐久夜比賣命」奈良県葛城市當麻町當麻1081
大坂山口神社[オホサカノヤマクチ](大。月次新甞。)
大坂山口神社「大山祇命、須佐之男命、天兒屋根命」奈良県香芝市穴虫3140
大坂山口神社「大山祇命、須佐之男命、稻倉魂命」奈良県香芝市逢坂831 リンク 逢坂・大坂山口神社本殿
葛木二上神社二座[カツラキノフタカミ](大。月次新甞。)
葛木二上神社「大國魂神、豐布都魂神」奈良県葛城市當麻町染野字二上山691
葛木二上神社
二神協力して殖産興業を守り給ふ、古来葛木二上大権現と称名して修験道者の尊信 篤く、雌雄二峰契りも深く縁結びの神としても霊験あらたかなり。 |
忍海郡[オシノミ]:三座 大二座 小一座
爲志神社[ヰシ]
葛木坐火雷神社に合祀 次段の式内葛木坐火雷神社に掲載
為志神社「伊古比都幣命」葛城市新庄町林堂 人麻呂生誕地「新庄町」 その6
葛木坐火雷神社二座[ホノイカツチ](並名神大。月次相甞新甞。)
葛木坐火雷神社[かつらきいますほのいかづち]「火雷大神、天香山命 配 大日 貴尊、高皇産靈尊、天津彦火瓊瓊杵尊、伊古比都幣命」奈良県葛城市新庄町笛吹神山448
葛木坐火雷神社
由緒書
当神社の御創建は神代とも神武天皇の御代とも伝えられていますが詳かでありませ ん。然しながら神社に伝わる旧記によれば、第十代崇神天皇の十年に四道将軍を置か
れ大彦命を北陸に御差遣され給うた時に笛吹連の祖櫂子(かじこ)この軍にしたがっ て都をたって寧楽山(奈良山)にお着きになった時、建埴安彦が兵を挙げて都を襲撃
しょうと企てている事を聞いて直ぐに京に引き返されて天皇にこのことを報告し、建 埴安彦を討ち果たす事を奏上せられた。このことを知った建埴安彦の妻吾田姫は一軍
を率いて忍坂から都に攻め入ろうとしたので五十挟芹彦命を遣わされてこれを討滅さ れた。一方大彦命は奈良山で安彦の本陣と戦いこれを追って和韓川(わからがわ、木
津川の上流)の南で川を挟んで対陣して居た時、櫂子の射放つた矢は安彦の胸を貫い てこれを倒したので賊軍は終に降伏して平定した。天皇は大いに櫂子の戦効を嘉賞し
給うて天盤笛(あめのいわふえ)と笛吹連の姓を賜る。この夜天皇のおん夢にこの天 盤笛もつて瓊瓊杵命を奉斎すれば国家安泰ならんとの御告げによつて、瓊瓊杵命を当
社にお祭りになったと伝えられています。当社を笛吹神社と申すのは元は火雷神社と 天香山命を祭った笛吹神社と二社あったのが合祀されたものと考えられる。延喜式神
名帳あるいは特選神名帳〓三代実録等の古い記録あります。 |
宇智郡[ウチ]:十一座並小
宇智神社[ウチ]
宇智神社「宇智大神」内臣の祖神もしくは武内宿彌を祀ったとも言われる。奈良県五條市今井4丁目6-2
阿陀比賣神社[アタヒメ]
阿陀比賣神社[あだひめ]「阿陀比賣神、彦火火出見命 配 火須勢理命、火照命」阿多隼人の祖神を祀った想定される。奈良県五條市原町24
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阿陀比売神社
式内社 阿陀比売神社御由緒
◎鎮座地奈良県五條市原町24番地(旧指定村社)
◎御祭神主神阿陀比売大神【阿陀津比売命】−木花咲耶比売命
御子火須勢理命(富之須佐利乃命・火須芹命)
御子火照命
御子彦火火出見命以上四柱を祀る。
本殿春日造。檜皮葺。主屋方2.1m。軒二重繁たるきを打ち、彩色を施している。
寛正(室町時代)の棟札ありと伝えられるが、現在その所在不明。
江戸時代初期の建築と考えられ、重要文化財につぐ貴重な神社建築である。【五條市 重要文化財指定第1号(昭和62年3月5日)】
◎境内社☆八坂神社『素戔鳴命』☆天照皇太神社『天照皇大神』☆熊野神社『伊弉諾 尊』☆春日神社『武甕槌神』☆八幡神社『誉田別尊』☆金刀比羅神社『大物主命』
◎御由緒当神社の創立は、崇神天皇15年(西暦前83年)と伝えられ、又、奈良時 代、神亀5年(西暦728年)藤原武智麿が神戸(神殿)を寄進したとも伝えられる
。
「延喜式神名帳」(延長5年西暦927年完成)にある阿陀比売神社は、本社であり 、五條市内式内社11社の社の内に挙げられる、由緒ある古社である。
当神社は、安産の神として、古来より信仰厚く、鈴の緒を戴き腹帯にする。
男児を欲する時は、白。女児を欲する時は、赤。無事出産すると、新しい鈴の緒を奉 納することが習わしであった。
今日では、例祭に腹帯を祈祷し、総代宅に保管して授与している。
御祭神木花咲耶比売命が皇孫瓊瓊杵尊にめされ、御子を産みます時、室に火をかけら れた。炎の初めて起こる時生みませる御子をホスセリノ命、次にホアカリノ命、次に
ヒコホホデミノ命と「日本書紀」にある。
“ヒメヒカケ”(後述)は姫が火をかけられた意に解せられ、安産を祈ることも、姫 神のこの御安産に基づくとせられるのである。
◎にえもつの里−書紀・神武天皇−
水に縁ひて西のかたに行くに及びて、亦、梁を作ちて取魚する者有り。 天皇問ひたまふ。対へて日さく、臣は是れ苞苴擔の子なりと。此れ即ち阿太のうかい
部が始祖なり。
古事記・神武天皇−
その八咫烏の後より幸でまししかば、吉野河の河尻にp>到りましき。
時に筌をうちて魚取る人有りき。ここに天ツ神の御子、汝は誰ぞと問はしければ、僕 は、国ツ神、名は贄持の子と日しき。【こは阿陀之鵜養祖】
◎シメシカケノ森
神社の東方の森を「シメシカケノ森」(別名比売火懸の森)と呼ばれる森がある。前 述の記紀のちなむ伝承である。
◎タケヤ・タケガイト・チモリ
へそのおを切った竹べらを捨てた所と伝えられる。更にチモリ(血森)などお産にか かわる伝承が多い。
◎縄文・弥生・古墳時代の遺跡
当神社の周辺一帯は、考古学上でも極めて重要な地域であり、阿太一帯に、縄文・弥 生・古墳時代の遺跡が点在している。
「ニエモツノ里」阿太は、阿陀比売神社と、古代史にかかわる興味深い伝承と遺跡の 田園地帯なのである。 |
荒木神社[アラキ]
荒木神社「荒木神」奈良県五條市今井町1549
荒木神社
史跡浮田杜伝説地
昭和32年6月13日指定
浮田杜は、万葉集に詠まれた古代の社そうであるが、このあたり一帯の荒木神社の杜 が相当すると考えられている。
かくしてやなおや守らむ大荒木の浮田の杜の標ならなくに(作者不詳巻十一の二八三 九)歌の内容は標縄に寄せて女性の想いをのべた恋歌であるが、その背景には、この
杜が、古来より神威厳しく、みだりに人の立入を禁じていた事によるとみられる荒木 神社は、今井集落の北端に荒木山を背にし、旧伊勢街道に面して鎮座している。
祭神は不明であるが、「延喜式」神名帳記載の式内社に比定されている。
植物相は、シイ、クロバイを主とした常緑広葉樹林、ヒノキを主とした針葉樹林によ って構成され、暖帯要素を混えた樹そうとなっている。
特にクロバイの巨樹の群生は、五條市内では唯一のもので、植物学上貴重な存在であ る。平成4年6月奈良県教育委員会 |
丹生川神社[ニフカハ]
丹生川神社[にゅうがわ]「水波能賣命」奈良県五條市丹原町530 吉野にようこそ
二見神社[フタミ]
二見神社「富須洗利命、水波能賣命」雨師さんと呼ばれる。 奈良県五條市二見町207
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二見神社
二見神社(雨師神社)御由緒
◎御祭神・富須洗利命(二見氏の祖神)・水波能売命(水の神様)
◎所在地五條市二見2丁目(旧小字雨師)
◎社務所〒637五條市二見4丁目1−9御霊神社・二見神社社務所宮司藤井治(〒 637五條市霊安寺町2079рO7472−3−0178)
古代、この地域に、二見氏が住んでいました。弘仁6年(815)編さんの『姓氏録 』に、「大和天孫二見首富須洗利命之後也」と記されており二見の村をひらいたのは
、二見首で、首長おびと”が祖神を祭り、このあたりを治めていたと考えられます 。
延長5年(927)に編さんされた『延喜式』神祇志の巻に当時の全国の神社名が記 されており、この古い由緒ある神社の事を《式内社》と呼ばれています。
当二見神社は、《式内社》で、『延喜式』に次のように記されています。
「二見神社今在二見村(いまふたみむらにあり)蓋二見首貫本国者(けだしふたみの おびとのもとつくににして)祀其祖火 降命也(そのそほつせりのみことをまつるな
り)」当二見神社は、いつのころからか、『雨師神社(雨主社)』とも称されるよう になり、ご祭神も「水波能売命」を祀るともされるようになりました。『大和志』(
同名所図会)に「二見者布多美と訓むべし 祭神二見首祖二見村在す 今雨師と称す 」と記されています。二見は降水即ち雨の意とする解釈もあり、二見が雨師に転化し
たとする考証もありますが、吉野・丹生の川合にあるこの土地は、肥沃の土地で農耕 に適しておる一面、治水も最大の課題で有ったと考えられます。
私達の遠い祖先が、この土地に根をおろし、祖神を祭り、水の神を祭りながら、農に いそしみ、家内安全・豊作を祈り、感謝したことと思います。以上簡単に縁起を記し
ました。以上 |
宮前霹靂神社[ミヤサキノナルカミ]
宮前霹靂神社[みやさきかんとけ]「宮前靂霹神」靂霹とは急激な雷鳴の意。奈良県五條市西久留野町416
火雷神社[ホノイカツチ]
火雷神社[ほのいかづち]「火雷神」奈良県五條市御山町74
高天岸野神社[タカマノキシノ](鍬)
高天岸野神社[たかまきしの]「高天岸野神」奈良県五條市北山町1289
落杣神社[オチソマ](鍬)
落杣神社[おちそま] 「大山祇神」奈良県五條市黒駒町376
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落杣神社
落杣神社御由緒
鎮座地五條市黒駒町375番地
御祭神大山祇命
伊邪那岐尊・伊邪那美尊二神の御子にして、多くの山津見神の上にありて総覧したま う山の神であります。
大山祇神社は、愛媛県越智郡宮浦村大字宮浦字榊山に鎮座。
延喜式内社の名神大社。
御祭神は、大山積神。和多志大神・三島大明神とも称されます。
古来、海上守護神として渇仰され、また、農神・武神として崇められてきました。
今尚、五社参り(本社・安芸の厳島神社・讃岐の金刀比羅神社・筑前太宰府の天満宮 ・豊前の宇佐神宮)と称して崇敬されています。
当落杣神社は、古来、阪合部連が祖先累代崇敬したという由緒深い神社で、延喜式内 社であります。
『大和名所図絵』に、「黒馬村にあり、いま御霊と称する。近隣十三か村の氏神とす る。」とあります。
御霊神社宮分け以前は、阪合部郷の氏神として崇められ、宮分け後、黒駒の森に二社 並び祀られてきました。
現在、黒駒の小羽根会館(黒駒バス停留所)の前より拝殿に達する石段の小道があり 、その小道を少し登った所に盤座があります。(古墳)
この盤座が元の落杣神社で、今も、小社があります。
いつの頃からか、御霊信仰に押されて、御霊神社が表にたち、落杣神社が陰に隠れて しまっているのを勿体ないと考え、御霊神社の本殿に合祀し、本殿二社としてお祭り
しています。
付記
◎御霊神社は、旧指定村社。
◎落杣神社は、旧村社。
◎氏子14大字。約600世帯。
◎氏子総代各大字より、1名選出される。定員14名
◎責任役員定員6名。内1名は宮司。宮司は、代表役員となる。責任役員の5名は、 氏子総代中より選出される。責任役員は、氏子総代会長・会計・書記・監事2名を互
選により選出する。任期は、3年。留任を妨げない。
◎祭典@例祭10月23日正午斎行。神輿のお渡りがあります。
A元旦祭1月1日10時斎行。氏子総代が大晦日より拝殿に詰める。
B月次祭毎月第1日曜日午前8時。氏子総代参列。祭典後、神社管理の奉仕作業・会 議を行なう。
◎境内の清掃奉仕・神輿奉仕は、各大字輪番で行っています。 |
高天山佐太雄神社[タカマノヤマサタヲ](鍬)
高天佐太雄神社[たかまさたお]「高天山佐太雄神」素盞嗚神である。奈良県五條市大沢町592 東條山・神福山
一尾背神社[ヒトヲセ]
一尾背神社[いちおせ]「水分神、一尾背神」奈良県五條市北山町249
吉野郡[ヨシノ]:十座 大五座 小五座
吉野水分神社[ヨシノゝミコマリ](大。月次新甞。) リンク 吉野水分神社、吉野水分神社
吉野水分神社[よしのみくまり]「天之水分神」奈良県吉野郡吉野町吉野山字子守1612
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吉野水分神社
子守宮御神徳畧記
本殿 中央春日造、左右流造、檜皮葺
幣殿 単層切妻柿葺
拝殿 入母屋造、柿葺
桜門及廻廊 重層入母屋造、栃葺、単層切妻栃葺、以上桃山時代代表建築(重要文 化財)
奈良県吉野郡吉野町大字吉野山鎮座の吉野水分神社は、延喜式神名帳に、吉野水分 神社大月次、新甞、とある旧社にして、大和四処水分の第一に数えられ、吉野八大神
祠の一つ、あめのみずわけで、俗に子守明神とも申されます御主神は天之水分大神で ありまして、水戸の神の御子神にて、続日本記文武天皇二年夏四月戌午奉馬乎吉野水
分神祈雨也とあり、みくまりは水配りにて、山谷より流れ出づる水を、程よく田畑に 配分して、灌漑の便を図り給う神であります。もと灌漑の便を図りて稼植の事を掌理
し給ふ神でありますが故に、古来風雨順ならず、早天などうちつづきて、稼植を損ふ が如きことある時にはいつも朝廷より、馬及び御幣物を奉献して、この神に祈り給ふ
を例とせられしのみならず、中古神祇官に於て行はせられし祈念祭及び六月、十二月 の月次祭には、案上官幣に預る大社である事は、延喜式の祝詞に徴しても明白の事実
であります。されば当社にては、古来大祭として盛大なる御田植祭を執行し、遠近の 氏子崇敬者御恩頼を蒙り、又神恩に奉賽するを恒例となってゐます。又当社の事を、
古くより子守宮といひ伝へ神名帳br>考証などにも吉野水分神社大月次 新甞祭水神今伝 子守明神とありて、世人はこの神社を出生育養即ち幼児守護の神として崇拝し、既に
豊臣秀吉も、この神に祈願して、秀頼を設けその縁によりて慶長年中建部内匠頭光重 を奉行とし建築再建に当らしめたるものにて、現に建物全部が重要文化財に編入せれ
れ居るは、其の当時再建のままの建物であり、それが桃山時代の豪華をもってするの で華麗であり、精巧を極めています。国学者の泰斗として有名なる本居宣長翁も、翁
の父母が、この神に祈請をこめし霊験により生れたという事が、翁の三度迄も当神社 に詣でて報賽せられ、その折詠み残されし和歌によりても明白であります。
吉野山花は見ぬとも水分の神のみまへをおうがむがよさ
水分の神のちかひのなかりせばこれのあが身は生れこめやも
父母の昔思へば袖ぬれぬ水分山に雨はふらねど
水分神を、幼児の守護神といふこと、如何にも不審らしく思われますが、それは当神 社の御祭神は、御主神の外に、尚六柱ありまして御正殿の右方の御殿には天満栲幡千
幡姫命、玉依姫命、天津彦火瓊々杵命を奉斎し、左殿には高皇産霊神、少名彦神、御 子神を奉斎しあれば、これにてそのいわれは知れます。
まづ右殿千幡比売命と、瓊々杵命とは親子にて、左殿の三柱も、皆親子神であります 。殊に栲幡千幡比売命は、高皇産霊神の御子神でありますが上に天照大神の御子正哉
吾勝速日天忍穂耳尊に配し給ひて、瓊々杵命を生みまし、保育そのよろしきを得て、 聡明英達、この国土に降臨され、皇祚の基を建て給ひ、又玉依姫命は、御姉豊玉姫命
にかわりて鵜草不合葺尊を御保育し、後に不合葺尊に配し給ひて、神武天皇を生み奉 り、その保育又よろしきを得て神武天皇が終にこの大和の国に於て日本国の紀元を御
創立遊ばされし、いとも尊く、いとも目出度瑞祥の存するを以て、この二姫命を幼児 守護の神として子守神社とたたへ庶人の尊崇するに至りし事、極めて道理ある事であ
ります。
以上略述いたしましたとおり、水分神社といふは、御正殿の天水分神によりて唱へ奉 る称号にて、主として山々谷々より流れ出る荒水を甘水になして、程よく田畑に分賦
して、稼植を成熟せしめ給ふ農業御守護の方よりたたへ奉り、子守宮といふは、左右 両殿に奉斎せる神々によりてたたへ奉れるにて、上にいへる如く、御祭神に出生保育
、幼児守護の大功徳を備へ給へるにより、何時とはなく唱へ奉る称号であります。
祭神の玉依姫の命の御神像は、日本第一の美女神像にて現在は国宝に指定されていま す。およそ等身大彩色十二単衣をまとい、端麗豊頬でお目の下にあるかなきのか微笑
をふくみ慈愛柔かさは、面長下ぶくれの高貴さと相映えて王朝時代の貴女の気品を備 え、えくぼまで表出されていて愛児に呼びかけてゐる生きた女神といった感じがあっ
て御子守の神にふさわしく緑豊けき頭髪を中央から左右にわけて両肩から背後に垂れ 衣紋は肩先から膝の上へ全体が正三角という美学の原則そのままであります。尚天満
栲幡千幡姫命の御神像も重要文化財に指定されてゐます。
因に、現今の本殿は、大正十五年五月、奈良県庁の監督の元に修理の工を起し、昭和 二年八月三十日を以て修理完成いたしました。此の要せし工費二万五千余円にて、尚
弊殿は引続きて修理の工を起こし、昭和三年九月此修理竣工いたしました。此工費壱 萬五千余円でありました。
又、桜門及廻廊は昭和六十一年一月奈良県文化財保存事務所の直営にて解体大修理の 工を起し昭和六十二年八月末を以て修覆が終り四百年前再建当時を偲ばせる姿になり
ました。此の要せし工費壱億弐千萬余円でありました。
神社の宝物としては
神輿 社殿と同時代の物にして八角八ツ棟造であります
湯釜 往昔御湯と申し禊祓に使用せしものなり
総高 二尺九br>寸 径一尺七寸
紫燈 大小二基あり 大 高四尺四寸余 小 三尺六寸余
湯釜、紫燈は皆鉄にて造らる
釣燈篭 八角にして金銅製一対あり
以上全部慶長九年豊臣秀頼郷の寄進によるものであります
三十六歌仙 此額は道光親王の御筆にして画は狩野永徳の画かれたものです
祭日 一月一日・新年祭、二月四日・古札焼納式、二月二十一日・祈年祭、四月 三日・御田植祭、四月十九日・春季若宮祭、十月十六日・御例祭、十月十九日・秋季
若宮祭、十一月二十三日・新甞祭、毎月一日十五日・月次祭、十二月三十一日・大祓 |
吉野山口神社[ヨシノゝヤマクチ](大。月次新甞。)
吉野山口神社「大山祇神」奈良県吉野郡吉野町山口634 吉野 その18
吉野山口神社
御祭神 大山祇神
延喜式神名帳に名を連ねた神社であった。明治以降は村社となった。中古天満宮と 呼ばれたが、これは天候を司る神である天神信仰から天神とたたえられ、鎌倉時代に
菅原道真の天神仰が盛んになって、あたかも菅公を祀るかのように信じられたためで あろう。明治以降元の社名に改められた。拝殿の前にある二基の灯籠は、八代将軍徳
川吉宗公が、参勤交替の長途の安全を祈って寄進されたものである。因に当社の横を 通る県道が江戸へ通じる高見越えの伊勢街道である。当社は古くから山の神降雨止雨
を司る神として信仰されている。 |
大名持神社[オホナモチ](名神大。月次相甞新甞。)
大名持神社「大名持御魂神」奈良県吉野郡吉野町大字河原屋86 古代であそぼ
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大名持神社(大汝宮)
大名持神社は、吉野町大字河原屋、小字妹山に鎮座されている旧式内郷社です。祭 神は、大名持御魂神(おおなもちみたまのかみ)・須勢理比羊命(すせりひめのみこ
と)・少彦名命(すくなひこなのみこと)で、鬱蒼とした妹山樹叢山麓に、氏子の崇 敬を集めて奉祀されています。
古くは龍門郷二十一か村の大社でしたが、明治十二年八月、河原屋外二十四か村の 郷社とすることに群衆合議で変更され、現在は、河原屋・立野の氏神となっています
。
境内には、紀州大真公の奉幣料と里人の資材の寄進による石燈篭があります。また 、神社下には、毎年六月三十日に海水が湧き出るという古い言い伝えのある潮生淵(
しおうぶ ち)があります。大汝詣りといって、大和国中(くんなか)の当屋の人が当神社に参 詣し、ここで六根清浄の水浴をいたしました。
妹山樹叢は当社神域に属し、昭和三年三月天然記念物に指定されています。昭和五 十六年五月、吉野地方行幸に際し、陛下には妹山にお立寄りになられて親しく樹叢を
ご覧になられました。
由緒沿革
創紀の年代は詳らかではありません。延長五年(九二七)に完成した延喜式神名帳 によると、大和国吉野郡十座の一つとして金峰神社とともに名神大社に列せられてお
り、月次(つきなみ)・新嘗(にいなめ)に官弊がささげられています。
延喜式には『大名持神社』、同式臨時祭を受ける名神二八五座の中に『大名持御魂 神社一座』とあり、大神分身類社鈔によると、中世には『妹背神社』とも称されまし
た。近時は、俗に『大汝言』(おなんじのみや)、音転倒によって『おんなじの宮』 ともいわれています。
菅原道真らの撰進した史書『三代実録』(九〇一)に「貞観元年正月二七日大和国 従一位大己貴神に正一位を授く」とあり、『大和志』(一七三五)にも「貞観元年正
月授正一位」とあります。貞観元年(八五九)全国で新階・新叙の神社は二六七社に 及んでいますが、正一位という極位を授けられたのは、わずかに大名持神社と河内国
枚岡神社のみであり、伊勢神宮・宇佐八幡は別にして、山城国の上賀茂・下賀茂の神 、鹿島・香取春日の諸神に次ぐ神階を授かった極めて神徳崇高な社です
本殿は神明造萱葺で、桧皮葺神明造の拝殿・祝詞殿・神饌所清浄手洗所・宝庫・社 務所が整備されています。境内神社は、本殿に向かって左 摂社の若宮神社(祭神事
代主神)と右 水神社(祭神罔象女神)、本殿西側石段上 末社の金毘羅神社(祭神 金山彦神)、稲荷神社(祭神稲蒼神)です。
境内には二十二基の石燈篭があり、その中には「文化三年十一月 大汝宮 紀伊大 守大真公之奉賽料及里民之資材以両基改造也」と刻されたものや、延享元蔵子八月(
一七四四)・明和甲申十二月(一七六四)・文久元年十一月(一八六一)・文化五年 七月二十八日(一八〇八)の記銘のあるものがあります。
営繕について、正徳二年(一七一二)の御宮上葺の記録、天保二年十月(一八三一 )の屋根替届書控、明治十八年三月上棟の棟札が残っています。
『大和名所図会』(1791)に「大名持神社 妹山にあり 山は河原屋村に属す 。
境内に大海寺あり。云々」とありますが、神社東南方にあった神宮寺の大海寺は、 明治維新の神仏分離で廃寺となり、わずかにその跡が残っているのみです。かって斎
祀した熊野曼茶羅の旧日本地仏十二社権現像十二躯は、仏国寺(河原屋)にまつられ ています。
祭典は二月二十六日(祈念祭)・七月十日(夏祭)・十月十七日(例祭)・十二月 二日(新嘗祭)です。
大汝詣り
吉野川行きとも言われた大汝詣りは、桜井市内(旧多武峰・朝倉・安倍・香久山の 村村や桜井町)の社の祭を執行するに先立って、当屋の者がこの神社に参詣、社前の
潮生淵で六根清浄の水浴をし、神酒口に水を汲み、吉野川原の小石を持ち帰って神事 に用いた 海水で穢を祓う潮垢離(しおごり)のことです。『吉野名勝志』(一九一
一)に「昔時神宮寺あり大海寺と称せり。寺廃されて倉庫一棟存す。潮生淵は社前吉 野川の辺に在り古へ三月三日、六月晦日潮水湧出すと云。周囲約二〇間許り、明治十
八年巌石を除きて其跡を滅せり」とあり、『大和志』に「社前有潮生淵。毎歳六月晦 潮水湧湧故名」とあることから、少なくとも享保の頃に海水が湧くという伝説があっ
て、その頃より続いた行事と思われます。
妹山
妹山は、斧鉞を絶つ神聖な山です。「妹山の土は生きている。だから木も毎日様子 が変わる」と今も信じられています。また、山頂には池があるという言い伝えも残っ
ています。これらは妹山を神秘な山とした信仰から生まれたもので、妹山という名は 忌山(イミヤマ)から起こったと想像されています。そして、人工美林の吉野の山々
の中で、しかも交通の便利な地のこの山だけが、原始林的樹叢を今日に残しているの は、その禁忌的信仰のためだといえます。
鬱蒼とした妹山樹叢は、昭和三年 天然記念物の指定を受け今日に至っております 。山中には、ツルマンリョウ・ルリミノキ・テンダイウヤク・ホングウソウ・ホング
ウシダなど、珍稀な温地性植物が繁茂しています。特にヤブコウジ科に属するツルマ ンリョウは東亜固有の植物で、わが国では、屋久島・山口県とこの地のみに成育する
珍しいものです。 山腹一帯にはアラカシ、イチイガシ、ツクバネガシ、カゴノキ、 ツブラジヒ、スタジヒ、サカキなどの常緑広葉樹・山頂には自然性のヒノキの群落が
ヒトツバ・ウラジロなどを下草として繁っています。
ちなみに、ツルマンリョウの学名アナムティア(Anamtia stoIoni fera Koidz)は大名持神社の名にちなんで小泉博士が命名されたものです
。
大頭入衆日記
大頭入衆日記(上田龍司氏所蔵)は、正中二年(一三二五)から大永八年(一五二 八)までと、享禄二年(一五二九)から、天正十二年(一五八四)までの龍門郷鎮守
大宮社の、大頭役になるための宮座座衆に入る記録で、例年の書き継ぎによるもので す。上巻の最初に南北朝時代の四通の文書裏を用い、下巻に幕末の学者穂井田忠友の
考証をつけている当地域随一の注目すべき文献です。
「応永七年カノヘ タツ九月四日座衆百姓評定云 天満宮神主殿・大汝宮神主殿両 人座敷事自今以後七日十日両度口仕可為御宝殿口役事名代子々孫々可被免貫者也 難
然座敷事悉可不有退転可定申由之仍為後代状如件・・・・」の記録から、吉野山口神 社(天満宮)と大名持神社が衆会祭を共催していたことがうかがえます。
大般若経
正平年間・龍門庄の惣領主牧尭観賞が楠木氏とともに河内国古市方面に転戦中、そ の執事の由良門羅雲祥が、凶徒退散・宝祚無窮・二親兄弟従類眷属等の離苦得楽と、
自身の願望成就を祈願して、大般若経六百巻を写経し、当神社に奉納しました。各経 巻首に『龍門庄大汝宮』の古印が朱印された経巻は、現在川上村運川寺に所蔵されて
います。
妹背山婦女庭訓 おんなていきん
妹山と対岸の背山を舞台とした浄瑠璃の『妹背山婦女庭訓』は、明和 八年(一七七一)に竹本座が再興されてうち出した傑作で、近松半二・近松東南・三
好松洛等の合作です。 暴逆きわまりない蘇我入鹿を、知謀に秀でた中臣鎌足が退治 していく大織冠物の一つです。
妹山は太宰少武国人 背山は大判事清澄の領内で、領地争いで不和の両家の久我之 助と雛鳥は恋仲である。しかし、雛鳥は入鹿に入内をせまられる。また、入鹿は、執
心していた帝の寵姫采女の局が猿沢池に入水したというのは偽りで、実はその付人で ある久我之助がかくまっているものと疑い、疑いをはらすために、久我之助に出任せ
よと難題を命じる。つまりは、雛鳥を奪おうとしての謀りである。ついに雛鳥は、久 我之助の無事を祈りつつ妹山の屋敷で母に首をうたせる。久我之助もまた雛鳥の幸せ
を願いつつ腹を切る。−帝への忠節と、雛鳥の命をかけて守った恋心に、二百年来多 くの人々は涙を流したのです。奈良県吉野郡吉野町河原 |
丹生川上神社[ニフノカハカミ](名神大。月次新甞。) 丹生川上神社上社[にうかわかみ][かみしゃ]「高 神 配 大山祇神、大雷神」奈良県吉野郡川上村迫宮字平167 玄松子の記憶
丹生川上神社上社
御祭神 高 大神
相殿神 大山祇神、大雷神
御由緒
天武天皇白鳳四年(皇起一三三五年)「人聲ノ聞エザル深山吉野ノ丹生川上ニ我ガ 宮柱ヲ立テテ敬祀ラバ天下ノタメニ甘雨ヲ降ラシ霖雨ヲ止メム」との神宣により創祀
されたと伝えられています。
上代の祭祀に御社殿はなく、折りにふれて霊山、霊木等に降神をいたし、祭祀を行 っていましたが、天武天皇の御代、初めて御社殿を建立して奉斎されたのであります
。勿論それ以前から祭祀が行われて居りました事は、現社殿近くより多数の土器・石 器が出土しましたので、御本殿御遷座の後、再び発掘調査いたしますので、上代より
祭祀が行はれていた事を明らかにされる事でしょう。
天武天皇は英聖文武にあらせられ、深く治民に御心を用いられ、数多くの御治績を 擧げられておられます。敬神崇祖の念篤く、皇女を斎宮とされ、二十年毎の伊勢の神
宮の遷宮の制を設けられました。仏教も奉信されて、薬師寺等も建立遊ばされたので あります。 |
丹生川上神社中社「罔象女神」蟻通しさんと言う。摂社に木霊神社ができ五十猛命が勧請されている。 奈良県吉野郡吉野町(東吉野村)小968 玄松子の記憶
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丹生川上神社
みつはの め の
祭神 罔象女神(水神) 例祭 十月十六日
主なる年中行事 水神祭 六月四日 献燈祭 八月十六日・十七日・十八日
由緒及歴世の崇敬
当社は今を去ること一千三百余年前、天武天皇白鳳四年「人声ノ聞エザル深山吉野 丹生川上ニ我ガ宮柱ヲ建テテ敬祀セバ、天下ノタメニ甘雨ヲ降ラシ霖雨ヲ止メン」と
の御神教によって斎祀せられた。そしてこの年から五穀の豊穣を祈願する祈年祭が行 われたことを併せ考えると、五穀の生命を司る雨水の神を祀る当神社の御鎮座は、愈
々その意義が深い。従って歴代朝廷の御崇敬は驚く、国家に大事のある時は必ず祈願 を籠められ、天皇、皇后の行幸啓五十余度、淳仁天皇の天平宝字七年五月の奉幣雨乞
、光仁宝亀六年九月の奉幣祈晴を始めとして、応仁乱世に至る迄、歴世神祇官御差遺 の上、奉幣祈願されたことは実に九十六回に及び、奉幣に際しては特に祈雨の黒毛馬
を止雨には白馬を奉られるのが常例で、誠に鄭重を極めた。
後醍醐天皇御製
この里は丹生の川上ほど近し 祈らば晴れよ五月雨の空 |
丹生川上神社下社[しもしゃ]「闇 神」奈良県吉野郡下市町長谷1-1 玄松子の記憶
丹生川上神社下社
御祭神 闇 神(クラオカミの神)
御神徳 万物生成化育の根源たる、水を主宰遊ばされ、地球上のありとあらゆる物象 の上に、はかり知れない恩恵を垂れ給い守護あらせられる。
御例祭 六月の一日(秋の大祭は十月十四日)
御社格 延喜式の名神大社、元官幣大社。
御本殿 総桧の流れ造り、屋根銅板葺きで建坪七・三一坪。
御神域 約五千坪樹令五百年の老杉をはじめ、槻、樫、椎等の巨樹を以て覆われ森厳 そのもので身心共に浄まる。
由緒沿革の概要
御祭神は、いざなぎ、いざなみの大神のみ子神であらせられ、天武天皇の白鳳四年 に「人聲ノ聞エザル深山ニ吾ガ宮柱ヲ立テテ敬祀セバ天下ノタメニ甘雨ヲ降ラシ霖雨
を止メム」との御神誨に因り創立された古社であるから、歴朝の御尊崇極めて篤く、 續日本紀に「天平宝字七年五月夷午丹生川上ノ神ニハ帛幣(へいはく)ノ外特ニ黒毛
ノ馬ヲ奉ル」と見え、この後は祈雨には黒馬を、祈晴には白馬を幣帛に添えて献ずる ことを恒例と遊ばされて居り、醍醐天皇の延喜の制では名神(ミョウジン)大社とし
て案上の官幣に預かり、ついで二十二社の一(全国の大社中の特別尊貴な神社)に列 し給い明治の新政に及ぶ。また別に神階正一位に進ませられ、爾後たびたびの奉幣を
お続けになり、孝明天皇は安政元年に「外患恨服、国家清平」の御祈祷を仰せつけら れ(御綸旨現存)文久二年には晨くも銀二十枚、米三十石を御下賜相成り(御沙汰書
現存)続いて明治天皇もその四年に官幣大社に御治定仰せ出だされ、初代大宮司に松 岡尚嘉を小宮司に江藤正澄を補佐せられて以来昭和二十一年までお使いとして高官を
参向せしめて、大祭、臨時大祭を厳重に斎行されて来たが、その後神社制度の変革に 依り宗教法人の神社となって今日に及んでいる。 |
金峯神社[カネノミタケ](名神大。月次相甞新甞。) リンク 金峯神社
金峯神社[かねのみね]「金山毘古神」奈良県吉野郡吉野町吉野山青根ヶ嶺字二ノ鳥居1651
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金峯神社
金峯神社御神徳畧記
よしのやま花のさかりは限りなし青葉の奥もなおさかりにて
上千本のさくらのしげみをくぐって水分の社から爪先上りの道を登ること約一粁余 で、金峯神社に着く。 松林の急坂を登りつめたところ、眼下に拡がる台地は一面に
さくらの青葉につつまれ、その正面奥の木の間がくれに拝殿、左に社務所が見える。
近年開通した下の千本ケーブル終点から定期バスやタクシーを利用すると、約二十 分で金峯神社下か社前に着くことができる。
春もいよいよ深まって、おちこちの花だよりも絶えるころ、この社前に名残りの花 を惜しむによく、やわらかくもえでたさくらの若葉に、たけなわの春の気を一ぱいに
味わうのもよい。
夏は標高八百米のここの土地から、涼しい深山の霊気に触れながらうぐいすの音が 聞ける。ここの風情は格別である。殊に社の森一面を埋めた秋の紅葉や、ずっしりと
降りつんだ雪の深山道を通り抜けて、この神前や隠塔に七百年の昔にかえって九郎義 経の心情を偲ぶのも感また一しおである。
一、祭神 金山毘古神
古事記によると、伊邪那岐神が火の神、迦具土神を生まれたとき「みほとやかえて 病み臥せり、たぐりに生りませる神の御名は金山毘古神、次に金山毘売神」と記され
、日本記には、一書に曰くとして「伊弉冊尊火神軻遇突智を生まむとしたまう時に悶 熱懊悩、咽ぐたりて吐したまう此れ神と化為りましつ、名を金山彦という」とでてい
る。悶熱懊悩とは、枯れ悩むという意味で、昔からこの神を生物の枯死を防ぐ神とし て崇敬された外、金峯総領の地主神として金鉱の山を掌る黄金の神として祀られてき
た。
二、沿革
創立年代は不明。林道春の神社詳説には、古今皇代図説の記事を引いて「宣化天皇 の三年和州金峯山に明神出現、安閑天皇の霊と称す」とあるが、詳かでない。吉野八
社明神の随一として、恐らく創祀は奈良以前にさかのぼるのでなかろうか。
延喜式神名帳には、吉野郡十座の神社の中に吉野山口神社・吉野水分神社とともに 連ね、三社とも大社に列せられて祈年祭はもとより月次、新嘗の二大祭には官祭を受
けて案上官幣に預るとあり、金峯神社はさらに明神大社に列せられて相嘗祭には優遇 されている。朝廷の崇敬あつく、文徳天皇の仁寿二年十一月特に従三位を、清和天皇
の貞観元年正月二十七日に正三位を、さらに後醍醐天皇は延元二年正月に正二位を加 えられている。
1.虫害排除の神としての金山毘古神
すでに述べたように、元々金山毘古神は生物の枯死を防ぐ神である。古代人には、 高山への信仰があり、大和では金峯山を葛城山とともに七高山の一つとして教えられ
た。金峯山とは、吉野河岸の吉野山から山上ヶ岳にいたる一連の山々の総称であるが 、昔から清浄せんような高山として尊ばれ、度々陰陽道の祭場に選ばれた。高山とい
うのはただ単に高い山というだけでなく、俗塵の少ない清浄の地として、さらに神霊 の降臨された神聖な山としてたたえられた。三代実録を見ると、中国の前漢で害虫の
ため五穀不作の時に被害のあった州や県内の清浄な処を選んで、害虫を壤う祭典を陰 陽寮に命じて行わせたといういわゆる薫仲舒の祭法にならって、清和天皇が貞観元年
八月三日と同五年二月一日に勅使や陰陽博士に命じて大和国吉野郡高山で虫害を解き 壤う祭事を行ったとでているが、この神社で行ったものである。現にこの神社を中心
に、社のすぐ東北方の陰塔付近や南西の愛染宝塔など、一帯に残る広大な屋敷跡は、 平安朝期に数多の寺院堂塔が建立されて都の人々の高山信仰の中枢地として尊崇され
た清浄な霊域として栄えていた往事を偲ぶに十分である。
2.金峯山の地主神としての金山毘古神
金峯の神は一名金精明神とも呼ばれ、金峯山一連の峯々の地主神として、金鉱を守 護して黄金を司る神であった。金峯山については金鉱のある山として、鉱脈の存在を
意味する宝の山として早くから世人に知られていた。奈良朝ごろは風土記的思想が流 布されて、天然資源開発への関心が強く、鉱産物の発見や発掘が進み、金属文化の結
実期だっただけに、精神的なあこがれの地として金峯山を弥勒の浄土と見たてられた こととも関連して、この山が若しかしたら金鉱の出る山でなかろうかとの半ば希望的
推測がいつの間にか事実であるかのように、宣伝されて、「金の峯」となり「金の御 嶽」となってきた。
例えば、権記長保三年四月二十四日の条に「早朝惟弘来り伝う、昨夜予金峯山に請 い金帯金剣を得、吉想なり」とあり、拾芥抄には「金峯山は皆黄金なり。慈尊出生の
時閣浮堤の地にのべ敷なんとて蔵王権現のまもらせたまうなり」との記事がある。元 亨釈書塵裏抄にも、聖武天皇が大仏鋳造のために箔を求められた時、金峯山が金山だ
から良弁僧正に命じて蔵王権現に申請させられた処、夢に「わが山の金は慈尊出現の 時、大地に布くためのものだからと拒否され、さるかわり近江国志賀の郡水海の岸の
南に一つの山があって大聖垂迹の地があるからそこへいって祈るようにとの告げがあ った。そこで良弁は石山に草庵を構えて祈誓したところ、果せるかな天平二十一年三
月、陸奥国から砂金が発見されて官庫に納めることができたので、天平に感宝の二字 を加えて天平感宝二十一年といった由が記さている。
宇治拾遺物語には、七条の薄打がこの山に登って金をとり「この金とれば、雷、地 震、雨降りなどして少しもとるものがなかったというが、何のこともないではないか
、今後もこの金をとって生活費にあてよう」うれしさの余り、はかりかけて見ると十 八両あった。これを箔に打つと七八千枚になったので、誰かまとめて買ってくれる人
がないだろうかと思っていた矢先、検非違使が東寺の仏を造るために金を集めている ことを聞いて大喜びで買ってもらおうとしたところ、件の金箔にはすべて細字で「金
御嶽」と書かれていた。検非違使からこのことを知らされた別当は、驚いてその金箔 を悉く金峯山に返還し、薄打を七条川原にはりつけ刑に処し、獄に入れたが十日余で
死んだと書かれている。
三、建物と付近の模様
拝殿の前に張られたあざやかなしめ縄の向う側に、またしても生いしげった熊笹に かくれそうな高い苔むした石段が見える。その頂上奥まったところが金峯の守護神の
存す神殿のはずだが見えない。
山腹の拝殿は桁行三間、梁間二間、其の昔暴風雨のため倒れたので、旧吉野神宮に あった拝殿を移建された。
神域は三三〇〇坪で社頭もかなり広い。社務所の左の釘抜門をくぐって下 ると蹴抜の塔がある。此の塔の由来は今より壱千三百年前大峯山と云い又山上岳とも
云う。山を開かれた役小角、即、役行者と云う僧が山を開く迄に塔の場所で三ヶ年間 修業をなして後に開かれた事に成って居る。其の後弟子の僧が出て、師匠の徳を偲ぶ
為に一基を建立して、今後大峯山へ登る修験者は必ず皆師匠と同じ様に修業して登る 様にと、昔から伝わって現在に及んだので有る。元弘当時、付近の宝塔院が大塔宮の
本陣となって居たが焼け失せた時にも兵火を免れて付近の堂塔中ただ一基残された鎌 倉時代優秀な建造物として国宝に指定されていたが明治二十九年惜しくも堂守の失過
で焼失し、大正の初年再建されたものが今の建物である。文治年間、源義経が弁慶外 家来などがこの塔内に隠れて一時難を免れたと云う。其の義経隠塔の名がある。又義
経が塔を出る時屋根を蹴破て逃たから蹴破り塔と云う。義経が隠れ塔は三重の塔で有 ったとの事である。白衣の神官に招かれて塔に入り「吉野なるみやまの奥の隠塔、本
来空のすみかなりけり。オンアビラウンケンソワカ。なむ高祖神変大菩薩」と呪文を 唱へながら、まっ暗な狭い堂内を廻る。突然ガンガンガンとひびく鐘の音に魂が沈ま
るというので、ここを鎮魂道場といって、修験者の行場として現在も続て行って居る 。寛弘四年藤原道長の埋蔵した経筒について、一説では本社東北の山麓から元緑四年
に堀り出されたともいうが、真偽の程は明らかでない。前に記したように、当時のこ の神域の清浄さなどから見ても、なるほどとうなずける点もないではないが、今直ち
にそうだとの断定は無理である。若しこれが真実であれば、現に東京国立博物館出陣 中の経筒が山上岳の経塚から発掘されたとの従来の説がくつがえされ、道長の金峯修
業はこの御社を中心として付近の霊域で行われたことにある。
神社から西行庵まで約六百余り、時間して往復三十分かかる、社前の右の道を登っ て右に折れしばらくして左に下ると、とくとくとくの苔清水を経て西行庵に至る。
社前から道を左にとって登ると道の右側に屋敷跡がながめらる。ここが愛染宝塔院 跡で東西五百米。南北八百米。平安朝以来繁盛をきわめた愛染堂、安祥寺、蔵王堂、多宝塔、四方正面堂鐘桜山七社熊野三社伊勢多賀荒神弁天八幡社等が櫛比していた、
いわゆる吉野の奥の院跡である。文字通り峯高うして谷深く、水清らかな一大別天地 で、往年金峯山上に修行する人は、先ずここに籠居して精進潔斉するのが例であった
。山上に入峯しない修行者は概ねここで練行するのが習わしであった。
四、祭儀
本社の秋の御例祭は、ごく最近まで毎年十月十五、六日両日行われていたが宮の秋 祭が即ち吉野山氏神で秋祭として行われて居る。現在は十月十六、七日両日に渡て行
われる 十六日午前中に宮から氏子が御神霊を唐びつにて奉じ先ず水分神社に渡遷。 それより水分神社の神輿に移し午後一時頃より天滿神社境内にある御旅所の仮宮に奉
遷して夜宵宮祭を行われて十七日本祭を行われて午後前日と同じく氏子にかつがれて 本宮に遷御される。
深き山にすみける月を見ざりせば思い出もなき我が身ならまし(西行)
高根より程もはるかの谷うけてたちつづきたる花のしらくも(本居宣長)
祭日 一月一日・新年祭、十月十七日・御例祭、二月二十一日・祈年祭、十月二十三日・新 嘗祭、毎月一日十五日・月次祭、十二月三十一日・除夜祭 |
高桙神社[タカホコ](鍬)
高鉾神社「高皇産靈神」奈良県吉野郡吉野町山口字モリ635 龍 門 ガ 岳
高鉾神社
御祭神 高皇産霊神
延喜式神名帳に記載された神社である。明治以後郷社として格付けされた。最初竜 門岳山頂に祀られていたが、約五百年前、ここ吉野山口神社の境内に遷され、両神社
とともに、竜門郷の総社として崇められている。今竜門山頂にある嶽神社は、高鉾神 社の元宮であるとされている本殿の建築が、室町時代の形式をとどめていること及び
社殿中央にある一基の灯籠に、文亀三年(一五〇三)の銘があり遷宮記念に奉献され たものでないかと云われている。昔から農耕の神、縁結びの神、命ごいの神、安産の
神として崇敬があつい。 |
川上鹿鹽神社[カハカミカシホ](鍬)
式内川上鹿塩神社[しきないかわかみかしお]「大倉姫命、大国主命、味 高日子根命」吉野国樔の始祖[石押分]が祭神であるとの説がある。奈良県吉野郡吉野町樫尾字大蔵423
大蔵神社「鹿葦津比賣命、大倉姫命、石穗押別命」奈良県吉野郡吉野町国樔字大倉343 吉野にようこそ、Mr.kokoro
大蔵神社
吉野町の東南端、川上村に通ずる衣笠山の南斜面に鎮座する旧指定村社で、国栖郷一円の鎮守であった。祭神は大倉比売命・鹿韋津比較売命・石穂別命。創祀不明。
『大和志』に川上鹿塩神社として「在= 樫尾東川南国栖三村之交界- 今称= 大蔵明神- 国栖荘七村民家相共預= 祭祀- 」とあったことで式内川上鹿塩神社とされた時代もあった。
本殿に接して、神宮寺の寺屋敷や庭園などがある。東川村・南国栖村の氏神であったが、明治の神仏分離で別当等は廃寺となった。数十年前までは東川と南国栖が祭典に参加した。
神前一対の石灯籠の右側は弘化四年(847)東川若連中から、左側は天明六年(1786)国栖郷から寄進している。
その後、東川は当社分霊を自村へ遷祀して氏子から離別するに至った。例祭は九月一日初遡祭として親しまれてきた。
本殿は切妻造・桧皮葺の三間社で、内陣に安置の神像はいずれも鎌倉期の作。社宝に中世以来奉納の古鏡多数あり、中の一面に「大蔵大明神、正応五年(1292)五月弐拾五日 藤原□□敬白」との針書がある。
大蔵神社庭園は室町期の標高三〇三メートルの高所にある小池や流れを持つすぐれた庭園として県指定の名勝である。 |
伊波多神社[イハタ]
伊波多神社[いはた]「伊波多神」奈良県吉野郡天川村大字和田字宮531-2 天和山登山
波寶神社[ハホ](鍬)
波宝神社[はほう]「上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命、息長帶日賣命」奈良県五條市(西吉野村)大字夜中176 吉野にようこそ
波比賣神社[ハヒメ]
波比賣神社[はひめ]「水波能賣命、譽田別命」奈良県吉野郡下市町栃原字黄金岳1807 吉野にようこそ
宇陀郡[ウタ]:十七座 大一座 小十六座
宇太水分神社[ウタノミコマリ](大。月次新甞。)
宇太水分神社:上宮[うだのみくまり]「天之水分神、速秋津彦神、國之水分神」奈良県宇陀市(菟田野町)古市場字宇太野245 リンク 玄松子の記憶
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宇太水分神社
参拝のしおり
水の神様宇太水分神社のしるべ
御祭神 水の神さま三神をおまつりしてあります。第一殿あめのみくまりの神、第二 殿はやあきつひこの神、第三殿くにのみくまりの神、摂末社(境内社)春日神社、室
町初期に奈良春日大社より勧請分社の神社で地氏子古市場の氏神社です。 社殿は国の重文の指定をうけています。宗像神 | |