出雲・石見の五十猛命
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 神話の里出雲での五十猛命の足跡をたどる。武神・樹木神・浮き宝の神・命の神として、妹の神々とともに国土開発をおこなった神、大国主命も頼りにした神、祀られている神社を旅するページ




 出雲風土記に記されているカムナビは、神名樋野(意宇郡):茶臼山、神名 火山(秋鹿郡):朝日山、神名樋山(楯縫郡):大船山、神名火山(出雲郡):仏教山の四山である。
 それ以外に意宇郡「熊野山、久多美山、玉作山」、島根郡「布自枳美高山」、秋鹿郡「足日山、女心高野、都勢野」、出雲郡「出雲御埼山」、神門郡「吉栗山、宇比多伎山」、飯石郡「琴引山、佐比売山」、仁多郡「御坂山、玉峯山」、菅火野、恋山」、大原郡「城名樋山、高麻山、船岡山、御室山」が紹介されている。日本の神々7「原宏」(白水社)から

 出雲独特の居候神「同社坐韓国伊太氏神」が式内社で六座あります。 氏はですが、以下「氏」で間に合わせます。  例えば玉造温泉がある玉湯町には「玉作湯神社同社坐韓国伊太氏神社」と言うように社地を独立して持っているようではなく、敷地内に祠を間借りしているるやに見える鎮座の仕方です。 この伊太氏神をして五十猛神、伊太祁曽神としたのは天保十四(1843)年に千家俊信と言う方で、現在まで大方の認める所となっています。



五十猛神社  大田市五十猛町

韓神新羅神社  大田市五十猛町大浦

大屋姫命神社  大田市大屋町

日御碕神社  簸川郡大社町

立虫神社  簸川郡斐川町

売布神社  松江市

伊賀多気神社  仁多郡横田町

鬼神神社  仁多郡横田町

三澤神社  仁多郡仁多町

伊賀武神社  仁多郡仁多町

揖夜神社  八束郡東出雲町

春殖神社  大原郡大東町

熊野大社  八束郡八雲村

嘉羅久利神社  能義郡広瀬町

小馬木八幡神社  仁多郡仁多町

高尾神社  仁多郡仁多町

三成八幡宮・須我非神社  仁多郡仁多町

大領神社  仁多郡仁多町

湯野神社  仁多郡仁多町

比太神社・磐船神社  能義郡広瀬町

出雲大社・素鵞社  簸川郡大社町

阿須伎神社  簸川郡大社町

喜多八幡宮  大田市大田町

迩幣姫神社  大田市長久町

物部神社・漢女神社  大田市川合町

島根の五十猛命を祀る神社一覧



 五十猛神社(いそたけ)
島根県大田市五十猛町2348



神社正面 勇者ロトさんご提供

交通案内
JR 大田市、五十猛駅下車、駅前を東へ7分、右にガードをくぐるとすぐ。mapion


祭神
五十猛命
配神 応神天皇、抓津姫神、大屋姫神、沖長足姫神、誉田別命、武内宿禰

由緒
 日本書紀の一書の伝えに、須佐之男の命が鬢を抜いて杉、胸毛から檜、尻毛から槙、眉毛を樟となしたとある。
用途として杉と樟は船、檜は宮、槙は寝棺を造るのに良いされ、そのために木種を播こうと申され、その子の五十猛,大屋都比売,都麻都比売の三柱の神がよく木種を播いた。

 御子達は、父神須佐之男の命と共に、韓国の曽尸茂梨(そしもり)に天降り、その地には木種を蒔かず、これを持って日本に帰り、木種を蒔いて、最後に紀の国に赴いたと伝えられている。

 『神国島根』には「この地は、須佐之男命、五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命が半島から帰国の上陸の地との伝えがある。 磯竹村(五十猛町)の内大浦の灘なる神島に舟上り座し給いて、父神武進雄命は大浦港に鎮座し御子五十猛神抓津姫神大屋姫三柱の神は磯竹村の内なる今の宮山に御社を立て鎮り給い、それより地名を五十猛村と言う。」と由緒を記している。

本殿 八幡造 勇者ロトさんご提供

 一方、五十猛命の降臨地としては、仁多郡の島上の峰(船通山)の伝承もある。更に、対馬、壱岐を経由して有明に上陸したともされている。各地に伝承があるのは、この神を奉ずる一族が、それぞれ渡来したとも思える。

 またJR大田の次が静間で、「静の磐」があり、大己貴神と少彦名神の国土開拓の出発地点とされている。この神社のある海岸は日本古代史上実に由緒のある地点である。ひとえに半島とも海運の便にその故がある。

 さて出雲には延喜式内社の韓国伊太神社が六座ある。意宇郡の玉作湯神社、楫夜神社、佐久多神社、出雲郡の阿須伎神社、出雲神社(現諏訪神社)、曽枳能夜神社であって、いずれも、同社韓國伊太神社となっている。 天保14年(1843年)千家俊信の「出雲国式社考」には、同神社の祭神は素盞嗚尊の御子の五十猛命としている。石見や出雲の他の神社では五十猛命とされている。イダテは古代朝鮮語、イタケは日本語とされる。

お姿
 砂地の小山に鎮座している。神木は松である。注連縄は大きい。



お祭り
例大祭  4月9日




 韓神新羅神社(大浦神社)
島根県大田市五十猛町大浦2719 mapion



交通案内
JR 五十猛駅下車、西に徒歩15分、左手に小学校を見てすぐ、大浦港におりる。海岸から鳥居が見える。バスは東大浦。

祭神
須佐之男命  配祀神 大屋津姫、抓津姫命

由緒
 半島から帰国した須佐之男命はここに留まり、神別れ坂で別れた大屋津姫命、抓津姫命を後にあわせ祀った。古代から半島とのつながりの深い土地であり、 この神社を訪れた作家の金達寿氏は「日本の中の朝鮮文化 講談社文庫」の中で我が意を得たような表現をしているのが印象的であった。半島は廊下であり、大陸経由の文物の大半はしばらく留まり、通過してきたのは間違いのないところであろう。 しかしそれらは朝鮮文化といえるのだろうか。半島で発展しまた発明されたものがあれば、それは朝鮮文化であるが、伝達の役割だけなら、さらに源流にまでさかのぼって表現する必要があろう。 「馬の文化、舟の文化」(福永光司氏著)と言う書物では、中国北部の馬、南部の船(南船北馬)のそれぞれの特徴から日本の文化風土を論じているが、半島南に舟、北に馬が伝わったと理解できる。 列島と半島とは風習や文化を多く共有しているが、元は大陸にあるのだろう。

お姿
 港の先の登り口に鎮座している。後ろは森である。鳥居と境内社が新しい。明神造。






 大屋姫命神社
島根県大田市大屋町261-1 mapion



交通案内
JR 大田市駅下車、大屋行きバス終点大屋駅前を南(久利の方へ戻る)へ徒歩10分で白い鳥居が見えてくる。
平8年10月の太田市駅発大屋行きバス時刻 (7:05) , 8:25 , 12:00 , 16:40 , (18:00) ( )は日祭運休
大屋発太田市行きバス時刻  (7:56) , 9:12 , 12:47 , 17:27 , (18:47)
バスで行く人は神社の前で降ろしてもらい、お参りをして、引き返すバスに乗せてもらえば、時間に無駄がない。

祭神
大屋都比売命

由緒
 須佐之男の命の子、五十猛,大屋都比売,都麻都比売の三柱の神がよく木種を播いたと日本書紀の一書にある。
 半島から帰国した五十猛命は五十猛町湊にとどまり、大屋津姫命、抓津姫命は神別れ坂で素戔嗚尊と別れ、それぞれ機織り、造林なとを指導し、姉の大屋津姫命はこの地に鎮まったとの古老の伝えがある。 地名も大屋郷と名づけられた。

お姿
 大屋の片隅の小山に木々の間に隠れるように鎮座している。白い鳥居があざやかである。注連縄は太い。
過疎の村でこの神社を維持するのはなみたいていの事では ない。確かに、古いのは古いが、本殿等はよく手入れされている。また神域の鎮守の森も木の神様らしく、鬱蒼としている。


拝殿


鳥居と小山



お祭り
例祭 4月19日  約160年の伝統の大屋神楽がある。

関連の深い神社
大屋都姫神社(和歌山)




 日御碕神社(ひのみさき)
島根県簸川郡大社町大字日御碕455

楼門

交通案内
JR 出雲駅から出雲大社(30分毎)・日御碕行き(1時間毎)のバス。mapion

祭神
神素戔嗚尊(神の宮)、天照大御神(日沈宮)
摂社
荒魂神社 速荒雄命
宗像神社 田心姫命
立花神社 伊弉諾命、五十猛命
蛭子神社 蛭兒命
御井神社 天村雲命
荒祭宮 速荒雄命
八幡神社 足仲彦命、譽田別命、氣長足姫命
稲荷神社 土祖神、大己貴命、倉稻魂命
門客人神社 櫛磐窗神、豐磐窗神
經島神社 天照大御神
百枝穂神社 天照大御神
立虫神社 少童神
隠丘神社 素盞嗚尊
月讀神社 月夜見尊
推恵神社 尊俊道命、清操邊命
林神社 天葺根命 配祀 天羽明玉命、五十猛命 東北1kmの山上に鎮座
荒魂神社 速素盞嗚尊
熊野神社 伊弉册尊 配祀 事解男命、速玉男命 宇龍港内の蓬莱島に鎮座
日吉神社 大己貴命
貴船神社 高神、闇
岐神社 猿田彦命、天鈿女命
水門神社 速秋津彦命、速秋津姫命
神紋石社 祭神不詳
韓国神社 素戔嗚命、五十猛命

韓国神社



由緒
 素戔嗚尊は「吾が神魂はその柏葉の止まる所に住まん」と言い、投げた葉の止まったところがこの社地の背後の隠ヶ丘であったとされている。御子の天葺根命が斎き祀ったのが由来。
『出雲国風土記』記載の美佐伎神社である。

神の宮 素盞嗚尊


 また、天照大御神を祀った由来は、ウミネコの繁殖地として有名な経島の松に瑞光が輝き、「吾は日の神なり。ここに鎮りて天下の人民を恵まん」と御神託があったので、天葺根命が祀ったと言う。この百枝槐社(ももいだみたま)を今の社地に遷座したのである。
日本海に沈む厳かで美しい夕日をまつったのが後に天照大神への信仰につながったとされている。*1

 五十猛命を祀った由来は不明であるが、この地方に多い韓国伊太神社などを遷座させたのかもしれない。

摂社群 この中に立花神社もある。


 韓国神社は篤志家の寄贈のようである。明治の初年までは背後の韓国山の中腹に西面して小祠が鎮座していたようで、それを境内に再現したもののようだ。韓国山の麓にも祠が建立されたと云うが、未確認。
 国引き神話で、当の日の御崎はまさに新羅の三埼を国引きして来たものであり、半島との海路の要衝であったようだ。

お姿
 朱色がふんだんに塗られており、きらびやかな神社である。
 この神社へ来ると神の宮が傲然と上に鎮座し、その下に日沈宮が置かれており、男性上位の北方の騎馬民族的思考の神社であるように思われる。素戔嗚命が天照御大神の弟であったとかの記紀の記述は、女性上位の南方海人的思考であろう。
 素戔嗚命と五十猛命を祀る韓国神社は新しい。この摂社ですら、日沈宮より高い所に鎮座している。

日沈宮 天照大神

日沈宮 天照大神



お姿
 1月 5日 和布刈神事    8月7日 例大祭(御崎祭)

『平成祭礼データ』日御碕神社御由緒記
御鎮座の由来

 日しずみの宮
日しずみの宮は、神代以来現社地に程近い海岸(清江の浜)の経島(文島又日置島と もいう)に御鎮座になっていたが、村上天皇の天暦2年(約一千年前)に勅命によっ て現社地に御遷座致されたのである。
経島に御遷座の由来を尋ねるに、神代の昔素盞嗚尊の御子神天葺根命(又天冬衣命と 申す)清江の浜に出ましし時、島上の百枝の松に瑞光輝き『吾はこれ日ノ神なり、此 処に鎮まりて天下の人民を恵まん、汝速に吾を祀れ。』と天照大御神の御神託あり、 命即ち悦び畏みて直ちに島上に大御神を斎き祀り給うたと云う。
又『日の出る所伊勢国五十鈴川の川上に伊勢大神宮を鎮め祀り日の本の昼を守り、出 雲国日御碕清江の浜に日しずみの宮を建て日御碕大神宮と称して日の本の夜を護らん 』と天平7年乙亥の勅の一節に輝きわたる日の大神の御霊顕が仰がれる。
かように日御碕は古来夕日を銭け鎮める霊域として中央より幸運恵の神として深く崇 敬せられたのである。
そして、安寧天皇13年勅命による祭祀あり、又第九代開化天皇2年勅命により島上 に神殿が造営された(出雲国風土記に見える百枝しぎ社なり)が村上天皇天暦2年前 記の如く現社地に御遷座せられ、後「神の宮」と共に日御碕大神宮と称せられる。

 神の宮
神の宮は神代以来現社地背後の『隠ケ丘』に鎮座せられていたが、安寧天皇13年勅 命により現社地に御遷座せられ(出雲風土記に見える美佐伎社なり)後「日しずみの 宮」と共に日御碕大神宮と称せられる。
隠ケ丘御鎮座の由来は,神代の昔、素盞嗚尊出雲の国造りの事始めをされてより、根 の国に渡り熊成の峯に登り給い、柏の葉をとりて占い『吾が神魂はこの柏葉の止る所 に住まん』と仰せられてお投げになったところ、柏葉はひょうひょうと風に舞い遂に 美佐伎なる隠ケ丘に止った、よって御子神天葺根命はここを素盞嗚尊の神魂の鎮りま す処として斎き祀り給うたと伝う、当神社神紋の由来もここにある。
かように日御碕は素盞嗚尊の鎮ります霊地として根の国の根源として中央より厚く遇 せられ、神の宮は素盞嗚尊をお祀りする日本の総本宮として厄災除、開運の神と天下 の崇敬をうけ今日も崇敬者の跡が絶えない。



参考 
*1日本の神々7(谷川健一編 藪信男)白水社、式内社調査報告、平成祭礼データ




 立虫神社(たちむし)
島根県簸川郡斐川町大字併川258 mapion



交通案内
JR 出雲駅下車、一畑鉄道の大津駅下車、東へ歩き斐伊川の橋を渡ると、北側に神社が見える。


祭神
五十猛命、大屋都比売命、抓津姫命

由緒
 神社の由緒書きによれば、素戔嗚命と五十猛命は仁多郡島上の峰に天降り、五十猛命は妹の命とともに植林、耕地の開発など農村に由縁のある神で、もともと神立橋の大津よりに祀られていたのを、今の地「万九千神社」に合祀されたとされている。 旧社地は神立橋付近に一ヶ所の島地があり、社島と呼ばれていたが、斐伊川大改修によって既にない。
例祭は10月10日。

万九千神社(まんくせん)

 祭神 櫛御気奴命、大穴牟遅命、少彦名命、八百萬神
神在月の出雲に集まった神々は、出雲大社から佐太神社を経てこの社にこられ、ここから帰国するとされている。旧暦10月26日に神等去出(からさで)祭りの神事がある。国家禎祥、宝作万歳、五穀豊穣を祈るのである。なお、神々が集まって会議をするので、 その期間には音を出すのを控えるとされている。かすかに鈴の音が聞こえるとのことである。 年に一度、大穴牟遅命の一族が新羅や出雲で採取された「鉄」の配分を相談したのかもしれない。古代版日本海サミットとの説もある。例祭は11月26日。

お姿
 特別神社立虫神社の石碑は左側に、万九千神社の石碑が右側にある。
 さっぱりとした雰囲気の神社で、地元の景色に良く融けている。南の方角に仏経山が見える。神奈備である。この当たりの家々は立木に囲まれており、一見神社と見間違う程である。築地松と言う、歴史的な風景であり、長く後世に伝えてほしい。
 また、この当たりでは、日の出は宍道湖、日の入りは日本海と水平線からである。山陰地方と言うが、太陽の恵みの多いところでもある。





 売布神社(めふ)
松江市和多見町81 mapion



交通案内
JR 松江駅下車、大橋川の松江新橋方面に徒歩7分

拝殿

祭神
速秋津比売神、配祀 五十猛命、大屋都比売命、抓津姫命
摂社
和田津見神社「櫛八玉神、豊玉彦神、豊玉比売神」
金刀羅神社「大名牟遅命、少彦名命」
船霊神社「上筒男命、中筒男命、底筒男命、猿田彦命」
恵美須神社「事代主命、大國主命」
道祖神社「猿田彦命」
白潟地主荒神「速秋津比古命」
常光神社「常姫霊位」
大松荒神「地主荒神」

社叢

由緒
 この地は往古海であったが、白砂が積もり、潟地となり、白潟大明神とよばれていた。水戸の神を祀った由縁であろう。速秋津比売神は大祓詞にある「潮の八百路の八潮路に座す神で、海上の守護神としても知られている。
相殿の三神は第20代安康天皇御宇2年に勧請されたと旧社記にあると、神社でいただいた略記にある。出雲風土記に賣布の社、延喜式神名帳に賣布神社と記されている。

お姿

本殿と神木

 力強い雰囲気の神社である。建物がはっきりしている。都会派の神社である。
 四月末の早朝に参詣したが、すでに神職さんは草むしりの最中であった。

お祭り
5月9日 春祭り
10月9日10日 秋祭り




 伊賀多気神社(いがたけ)
島根県仁多郡横田町大字横田1278 mapion



交通案内
JR 横田駅下車 北へ1km

祭神
五十猛命
配 素盞嗚尊、大己貴命

鳥居

由緒
 出雲国風土記によると横田郷の名は郷内にある四段ほどの形の長い田があることに由来するとされる。地名説話としてはへたな部類か。
 神社年間の由緒には垂仁天皇の時代、御神体二体を刻み、社造して祀るとある。相当に古い神社と伝わっていた。
 伊賀多氣神社は『雲陽誌』(享保六(1,717)年編纂の松江藩の藩撰地誌)では五十猛神社と記されている所から見れば、またオロチ伝説の地にふさわしい神ではある。
 もともと、現在より川上の五反田の東辺からそう遠くない所にあったと言う。大呂神社か鬼神神社の辺りであろうか。どちらにしても、鳥上峯とされる船通山に懐かれる地域である。 天文年間(1532?1555年)に横田郷を尼子氏が制圧し、藤ヶ瀬城下の鎮守となった代官森脇家真と五反田屋の手によって、現在地へ遷し、再興されたという。

拝殿

 この地域は石清水八幡宮の領有するところとなり、横田八幡宮が勧請されている。保元三(1158)年出雲八別宮の一つとして横田別宮となるように、 伊賀多気神社はかえりみられることのない時代があった。廃絶していたのであろう。  
 社宝 隋神立像二躰はヒノキ材の一木彫成で鎌倉時代後期の地方の作である。県文化財である。

隋神像(横田町ホームページ画像 www.town.yokoto.shimane.jp から)

平成祭礼データCDの由緒
 伊賀多気神社は垂仁天皇の御代に創建せられた延喜式所載の古社であり、旧郷社である。
 出雲風土記に神祗官社とせられている。
 御鎮座地島根県仁多郡横田町角は、古代横田庄と申し、仙洞院御領地であった。
 御祭神は五十猛命であり、合殿に父神素盞鳴尊と大己貴命を合わせ祀る。五十猛命は父神を助けて大蛇退治をなされた神で、父神と共に朝鮮新羅国曾尸茂梨(そしもり)より樹木の種子を持ち帰りになられ、大蛇の荒らした山野にその種子を播き、治山・治水の実あげられると共に、日本全国に植樹・育林を奨められたので、山林の守護神・樹木の神様として、古くは朝廷並びに林業関係者の崇敬が厚かった。

お姿

本殿

 御社殿 御本殿 大社造  間口二間  奥行二間
    通 殿 切妻造  間口一間半 奥行一間半
    拝 殿 入母屋造 間口五間半 奥行二間
    随神門 楽殿

祭壇

 斐伊川上流のよい砂鉄のとれる地域である。
 素盞嗚尊の八岐の大蛇退治伝承があるが、この神社から3km程東に大呂という地名がある。 そこに大呂神社が鎮座しているが、祭神は天照大神と素盞嗚尊の誓約で誕生したとされる五男三女神である。 軽々しく、祭神を疑うのは不敬ではあるが、斐伊川下流の簸川郡佐田町大字大呂に鎮座する大呂神社の祭神は譽田別命、日本武命、五十猛命、綿津見命の四柱であり、地域柄元々は五十猛命を祭神としていたように思われることを指摘しておきたい。

 「五十猛命の原郷」かも知れないと思ってやっと訪ね来た。黒い大社造の屋根が見えた時にはその威風堂々の姿に感銘した。

 この地域は、国策の洋式製鉄の開始によるたたら製鉄の衰退に伴い、往年の勢いがなくなったが、鉄師達が中心になって町の殖産興業のために力を注いだ。 種馬牛の導入、鉄道の開設、電灯会社・銀行の創業そして木炭の改良と次々と事業を興した。 また、雲州そろばんの珠削り技術の開発は、職人の研究心と奥出雲の鋼、鍛冶技術が結びついたものと言える。
 このような創意工夫は何か紀州の人々の雰囲気と相通じるような気がする。日本人の存在意義の原点である。

お祭り

祈年祭  四月八日
例大祭 十一月八日
新嘗祭 十二月八日

出雲国風土記 仁多郡[にたののこほり]から

仁多郡
合はせて郷[さと]四 里[こざと]一十二
 三處郷[みところのさと] 今も前[さき]に依りて用ゐる。
 布勢[ふせ]郷 本の字は布世[ふせ]。
 三澤[みざは]郷 今も前[さき]に依りて用ゐる。
 横田[よこた]郷 今も前[さき]に依りて用ゐる。
  以上四、郷別[さとごと]に里[こざと]三。

仁多と號[なづ]くる所以[ゆゑ]は、所造天下大神大穴持命[あめのしたつくらししおほかみおほあなもちのみこと]、詔[の]りたまひしく、 「此の国は大きくも非ず、小さくも非ず、川上[かはかみ]は、木の穂[ほさ]し加布[かふ](交ふ)。 川下[かはしも]は、河志婆布這[かはしばふは]ひ度[わた]れり。是[こ]は爾多志枳小国[にたしきをくに]なり」と詔りたまひき。 故[かれ]、仁多と云ふ。
三處郷[みところのさと]。即ち郡家[ぐうけ]に屬[つ]けり。大穴持命[おほあなもちのみこと]、詔りたまひく、「此の地[ところ]の田好[よ]し。 故[かれ]、吾[あ]が御地[みところ]の田」と詔りたまひき。故[かれ]、三處[みところ]と云ふ。
布勢郷[ふせのさと]。郡家の正西[まにし]一十里なり。古老の傳へに云へらく、大神命の宿[ふせ]り坐[ま]しし處なり。故[かれ]、布世[ふせ]と云ふ。神亀三年に、字を布勢と改む。

三澤郷[みざはのさと]。郡家[ぐうけ]の西南二十五里なり。大神大穴持命[おほかみおほあなもちのみこと]の御子[みこ]、阿遅須伎高日子命[あぢすきたかひこのみこと]、御須髪八握[みひげやつか]に生[お]ふるまで、晝夜[よるひる]哭[な]き坐[ま]して、辞[みこと]通[かよ]はざりき。 爾[そ]の時、御祖命[みおやのみこと]、御子を船に乗せて、八十嶋[やそじま]を率巡[ゐめぐ]りて宇良加志[うらかし](慰[うら]かし)給へども、猶哭[な]き止みたまはざりき。  大神、夢[いめ]に願[ね]ぎたまひしく、「御子の哭[な]く由[よし]を告[の]りたまへ」と夢に願[ね]ぎ坐[ま]しき。その夜、御子の辞[みこと]通[かよ]ふと夢見坐ししかば、則ち[さ]めて問[と]ひ給ふに、爾の時、「御澤[みざは]」と申したまひき。 爾[そ]の時、「何處[いづく]をか然[しか]云ふ」と問ひ給へば、即[やが]て御祖[みおや]の前を立ち去り出て坐して、石川[いしかは]を度[わた]り、坂上[さかがみ]に至り留まりて、「是處[ここ]ぞ」と申したまひき。 爾[そ]の時、其の澤[さわ]の水沼[みぬま]出[い]だして、御身沐浴[みみそそ]ぎ坐しき。故[かれ]、国造[くにのみやつこ]、神吉詞[かみよごと]奏[まを]しに朝廷[みかど]に参向[まゐむ]かふ時、其の水沼[みぬま]出[い]だして用ひ初[そ]むるなり。 此[ここ]に依りて、今も産婦[はらめるおみな]、彼[そ]の村の稲を食[くら]はず。若し食へば、生[う]まるる子已[すで]にもの云[い]はず。故[かれ]、三澤[みざは]と云ふ。即ち正倉あり。

 横田郷[よこたのさと]、郡家[ぐうけ]の東南二十一里なり。古老の傳へに云へらく、郷の中[うち]に田四段許[よきだばかり]あり。形聊[いささ]か長し。遂に田に依りて、故[かれ]横田と云ふ。即ち正倉あり。以上の諸[もろもろ]の郷より出す所の鐵[まがね]、堅くして、尤[もつと]も雑具[くさぐさのもの]を造るに堪[た]ふ。
澤社[みざはのやしろ]  伊我多気社[いがたけ]  以上二所は、並びに神祇官にあり
玉作社[たまつくり]    須我乃非社[すがのひ]
湯野社[ゆぬ]    比太社[ひだ]
漆仁社[しつに]   大原社[おほはら]
印支斯里社[いなぎしり]  石壷社[いはつぼ] 以上八所は、並びに神祇官にあらず

以降に山、野、戀山、川、道の説明が続く。各郷の神社のサイトに掲載する。
【横田郷】
鳥上[とりかみ]山。郡家の東南三十五里なり。伯耆と出雲との堺なり。鹽味葛[えびかずら]あり。
横田[よこた]川。源は郡家の東南三十五里なる鳥上[とりかみ]山より出でて西に流る。謂[い]はゆる斐伊河[ひのかは]の上[かみ]なり。年魚[あゆ]少しくあり。
 




 鬼神神社(おにかみ)
上宮伊賀多気神社
島根県仁多郡横田町大字大呂2058 mapion

船通山(伝鳥上峯)

交通案内
JR 横田駅下車 船通山方面バス 大呂小学校

祭神
五十猛命
配 素盞嗚尊

社標と鳥居

社前の由緒書き
 出雲国風土記の爾多志枳小国[にたしきをくに]なり」とは此の地を指し、大呂は大風呂で、大きな森の意で、神亀三(726)年、大呂に改名。正倉が置かれこの辺りの中心を成し、 式内伊我多気神社は当社である。古記録に四十代天武天皇、五十四代仁明天皇、五十五代文徳天皇の時、朝廷より幣が奉られた。仁明天皇時、正六位。
 永正十六(1,519 )年、尼子経久の攻略で上宮伊我多気神社は焼失した。
 御祭神は霊力絶大で、「威武(イタケ)の神、邪気、怨霊折伏の神として鬼神伊我武大明神と称えられたとあり、地域支配の各武将が寄進している。

慶長九龍集甲辰菊月吉祥日、出雲国造千家元勝撰
 出雲国仁多郡小国里 鬼神大明神縁起一巻
 出雲国仁多郡横田荘小国里 上宮船燈山鬼神伊我多気大明神者祭祀素盞嗚尊五十猛神也 延喜式云五十猛神陵地伊我多気社是也
 中略(神奈備による)
 出雲国簸川上所在鳥上峯其船成岩干今在社前止庶民崇敬岩船大明神也
 後略(神奈備による) とある。

拝殿

 素盞嗚尊、五十猛命がソシモリより帰国して到着したとされる鳥髪の峯とされる船通山を見上げる位置に鎮座する。すなわち、この辺りで、素盞嗚尊に五十猛命が協力して八岐大蛇退治を行ったことになっている。

 記紀の本文では簸の川の川上であったとされる。古事記では簸の川上流の「鳥髪の地」と記す。出雲国風土記には「出雲の大川、源は伯耆と出雲の国の堺の鳥上山より出て、流れて仁多郡の横田の村に出て、横田、三処、三沢、布施の四つの郷を経て、大原郡の堺の引沼村に出て、来次、斐伊、屋代、神原の四つの郷を経て、出雲郡の堺の多義村に出て、河内、出雲の二つの郷を経て、北に流れ、更に西に折れて、伊勢、杵築の二郷を経て、神門の水海に入る。いわゆる斐伊の川の下なり」 とある。斐伊川は出雲の大川と同じではなく、その一部を称している。斐伊郷を流れている大川を斐伊川と呼んだと考えられる。すなわち木次町・三刀屋町の境界付近かと思われる。そうするとこの辺の素盞嗚尊、五十猛命の祭神を持つ神社はやはり産鉄の民の奉斎したものと見るべきだろう。
 実は出雲国風土記には八岐大蛇退治は一切語られていない。記紀に登場する素盞嗚尊のクライマックスの一つであるこの話は出雲国風土記に見えないということは何を示すのであろうか。
 これだけではなく、風土記では、素盞嗚尊は実に土の匂いのする土着神として現れ、踊りを踊るなどとうてい国津神の総帥とは思えないおだやかなお姿である。

 出雲国風土記抄(抄は金偏)から船通山について
 素盞嗚尊、志羅伎国より五十猛命を師ゐて東せし埴舟此の山の止まる。故に船通と曰わく。山体は石英斑王岩・流紋岩で形成され、山麓は花崗岩中に磁鉄鉱を含む良質の真砂砂鉄があり、古来その産地として知られた。
大正十二年神職会によって「天叢雲剣出顕之地」の記念碑が建てられた。

 砂鉄はチタン分が少ない鉄で溶融点がやや低いそうである。記紀の逆流があって、八岐大蛇退治の話は江戸時代以降に、出雲に普及し、伝承の地も作られていったという。

 神社の名前の鬼神であるが、何時の頃の命名か不詳であるが、五十猛命は勇猛神とされていることに関連するのか、木の神を鬼の神と表記したのか、 想像をするだけの段階である。

社前の岩船

お姿

 五十猛明の神陵の地とされるが、そのような雰囲気は感じられなかった。田舎のごく普通のじんじゃの面影を残している。後背の山も含めて木々は豊富だ。
 斐伊川上流のよい砂鉄のとれる地域の真ん中である。大呂村は真砂砂鉄のみを用いた和鋼を得、この玉鋼を全国の刀匠に供給している。 砂鉄と木炭を溶解し玉鋼を製造することをタタラ吹キと称している。
 神社の前の道路は幅拡張中の工事が行われていた。船通山まで約8km。

本殿

お祭り

祈年祭  四月十日
例大祭  十月十日

出雲国風土記 仁多郡[にたののこほり]から

仁多郡
合はせて郷[さと]四 里[こざと]一十二
 三處郷[みところのさと] 今も前[さき]に依りて用ゐる。
 布勢[ふせ]郷 本の字は布世[ふせ]。
 三澤[みざは]郷 今も前[さき]に依りて用ゐる。
 横田[よこた]郷 今も前[さき]に依りて用ゐる。
  以上四、郷別[さとごと]に里[こざと]三。
仁多と號[なづ]くる所以[ゆゑ]は、所造天下大神大穴持命[あめのしたつくらししおほかみおほあなもちのみこと]、詔[の]りたまひしく、 「此の国は大きくも非ず、小さくも非ず、川上[かはかみ]は、木の穂[ほさ]し加布[かふ](交ふ)。 川下[かはしも]は、河志婆布這[かはしばふは]ひ度[わた]れり。是[こ]は爾多志枳小国[にたしきをくに]なり」と詔りたまひき。 故[かれ]、仁多と云ふ。
三處郷[みところのさと]。即ち郡家[ぐうけ]に屬[つ]けり。大穴持命[おほあなもちのみこと]、詔りたまひく、「此の地[ところ]の田好[よ]し。 故[かれ]、吾[あ]が御地[みところ]の田」と詔りたまひき。故[かれ]、三處[みところ]と云ふ。
布勢郷[ふせのさと]。郡家の正西[まにし]一十里なり。古老の傳へに云へらく、大神命の宿[ふせ]り坐[ま]しし處なり。故[かれ]、布世[ふせ]と云ふ。神亀三年に、字を布勢と改む。
三澤郷[みざはのさと]。郡家[ぐうけ]の西南二十五里なり。大神大穴持命[おほかみおほあなもちのみこと]の御子[みこ]、阿遅須伎高日子命[あぢすきたかひこのみこと]、御須髪八握[みひげやつか]に生[お]ふるまで、晝夜[よるひる]哭[な]き坐[ま]して、辞[みこと]通[かよ]はざりき。 爾[そ]の時、御祖命[みおやのみこと]、御子を船に乗せて、八十嶋[やそじま]を率巡[ゐめぐ]りて宇良加志[うらかし](慰[うら]かし)給へども、猶哭[な]き止みたまはざりき。  大神、夢[いめ]に願[ね]ぎたまひしく、「御子の哭[な]く由[よし]を告[の]りたまへ」と夢に願[ね]ぎ坐[ま]しき。その夜、御子の辞[みこと]通[かよ]ふと夢見坐ししかば、則ち[さ]めて問[と]ひ給ふに、爾の時、「御澤[みざは]」と申したまひき。 爾[そ]の時、「何處[いづく]をか然[しか]云ふ」と問ひ給へば、即[やが]て御祖[みおや]の前を立ち去り出て坐して、石川[いしかは]を度[わた]り、坂上[さかがみ]に至り留まりて、「是處[ここ]ぞ」と申したまひき。 爾[そ]の時、其の澤[さわ]の水沼[みぬま]出[い]だして、御身沐浴[みみそそ]ぎ坐しき。故[かれ]、国造[くにのみやつこ]、神吉詞[かみよごと]奏[まを]しに朝廷[みかど]に参向[まゐむ]かふ時、其の水沼[みぬま]出[い]だして用ひ初[そ]むるなり。 此[ここ]に依りて、今も産婦[はらめるおみな]、彼[そ]の村の稲を食[くら]はず。若し食へば、生[う]まるる子已[すで]にもの云[い]はず。故[かれ]、三澤[みざは]と云ふ。即ち正倉あり。

 横田郷[よこたのさと]、郡家[ぐうけ]の東南二十一里なり。古老の傳へに云へらく、郷の中[うち]に田四段許[よきだばかり]あり。形聊[いささ]か長し。遂に田に依りて、故[かれ]横田と云ふ。即ち正倉あり。以上の諸[もろもろ]の郷より出す所の鐵[まがね]、堅くして、尤[もつと]も雑具[くさぐさのもの]を造るに堪[た]ふ。
澤社[みざはのやしろ]  伊我多気社[いがたけ]  以上二所は、並びに神祇官にあり
玉作社[たまつくり]    須我乃非社[すがのひ]
湯野社[ゆぬ]    比太社[ひだ]
漆仁社[しつに]   大原社[おほはら]
印支斯里社[いなぎしり]  石壷社[いはつぼ] 以上八所は、並びに神祇官にあらず

以降に山、野、戀山、川、道の説明が続く。各郷の神社のサイトに掲載する。

【横田郷】
鳥上[とりかみ]山。郡家の東南三十五里なり。伯耆と出雲との堺なり。鹽味葛[えびかずら]あり。
横田[よこた]川。源は郡家の東南三十五里なる鳥上[とりかみ]山より出でて西に流る。謂[い]はゆる斐伊河[ひのかは]の上[かみ]なり。年魚[あゆ]少しくあり。
 




 三澤神社(大森大明神)
島根県仁多郡仁多町大字三沢402 mapion

鳥居

交通案内
JR 三成駅下車 西へ1km

祭神
阿遲須枳高日子根命 配 大己貴命、素盞嗚命、氣長足比賣命、少彦名命、五十猛命、別雷命、志那都比古命、志那都比賣命
摂社
原田八幡宮「譽田別命」
事代主社「事代主命」
蚕養神社(こがいじんじゃ)「蠶養國大神」
加茂神社「分雷命」
高守神社「大己貴命、少彦名命、五十猛命」
狼神社「祭神不詳」
社日社「天照大神、大己貴命、少彦名命、宇賀魂命、埴安姫命」

拝殿

由緒
 仁多郡の延喜式内社二座の一。
 この地域を支配した飯島氏が後に三沢氏と改め、尼子氏の登場までは奥出雲の実力者であった。 三沢氏は16世紀初頭には東隣の垂涎の的であった横田荘を手に入れ、藤ヶ瀬城を拠点とし、もう一つの式内社伊賀多氣神社を再興している。

 古代の三沢郷
 大穴持命の子、阿遲須枳高日子根命は成人するまで昼夜泣き続けていた。大穴持命は夢に祈願して、子供に問うたところ、 御沢で水浴をすると直るとのことであった。三沢の語源説話である。
 なお、鉱毒におかされた聾唖者であったとして、妊婦はこの濡等の米を食べない風習があったそうである。 本当の所は、鉄の産地の稲でとれる米はうまいそうである。

 出雲国造が神賀詞を奏上するべく朝廷におもむく際、三沢の泉水で禊ぎをおこなったという。

お姿
 村のはずれの小高い山腹に鎮座、

神明造の本殿と拝殿

摂社 足守社、荒神社は木に籬のみの始原的な姿

お祭り

例祭  四月十一日

出雲国風土記 仁多郡[にたののこほり]から

仁多郡
合はせて郷[さと]四 里[こざと]一十二
 三處郷[みところのさと] 今も前[さき]に依りて用ゐる。
 布勢[ふせ]郷 本の字は布世[ふせ]。
 三澤[みざは]郷 今も前[さき]に依りて用ゐる。
 横田[よこた]郷 今も前[さき]に依りて用ゐる。
  以上四、郷別[さとごと]に里[こざと]三。
仁多と號[なづ]くる所以[ゆゑ]は、所造天下大神大穴持命[あめのしたつくらししおほかみおほあなもちのみこと]、詔[の]りたまひしく、 「此の国は大きくも非ず、小さくも非ず、川上[かはかみ]は、木の穂[ほさ]し加布[かふ](交ふ)。 川下[かはしも]は、河志婆布這[かはしばふは]ひ度[わた]れり。是[こ]は爾多志枳小国[にたしきをくに]なり」と詔りたまひき。 故[かれ]、仁多と云ふ。

三處郷[みところのさと]。即ち郡家[ぐうけ]に屬[つ]けり。大穴持命[おほあなもちのみこと]、詔りたまひく、「此の地[ところ]の田好[よ]し。 故[かれ]、吾[あ]が御地[みところ]の田」と詔りたまひき。故[かれ]、三處[みところ]と云ふ。

布勢郷[ふせのさと]。郡家の正西[まにし]一十里なり。古老の傳へに云へらく、大神命の宿[ふせ]り坐[ま]しし處なり。故[かれ]、布世[ふせ]と云ふ。神亀三年に、字を布勢と改む。

三澤郷[みざはのさと]。郡家[ぐうけ]の西南二十五里なり。大神大穴持命[おほかみおほあなもちのみこと]の御子[みこ]、阿遅須伎高日子命[あぢすきたかひこのみこと]、御須髪八握[みひげやつか]に生[お]ふるまで、晝夜[よるひる]哭[な]き坐[ま]して、辞[みこと]通[かよ]はざりき。 爾[そ]の時、御祖命[みおやのみこと]、御子を船に乗せて、八十嶋[やそじま]を率巡[ゐめぐ]りて宇良加志[うらかし](慰[うら]かし)給へども、猶哭[な]き止みたまはざりき。  大神、夢[いめ]に願[ね]ぎたまひしく、「御子の哭[な]く由[よし]を告[の]りたまへ」と夢に願[ね]ぎ坐[ま]しき。その夜、御子の辞[みこと]通[かよ]ふと夢見坐ししかば、則ち[さ]めて問[と]ひ給ふに、爾の時、「御澤[みざは]」と申したまひき。 爾[そ]の時、「何處[いづく]をか然[しか]云ふ」と問ひ給へば、即[やが]て御祖[みおや]の前を立ち去り出て坐して、石川[いしかは]を度[わた]り、坂上[さかがみ]に至り留まりて、「是處[ここ]ぞ」と申したまひき。 爾[そ]の時、其の澤[さわ]の水沼[みぬま]出[い]だして、御身沐浴[みみそそ]ぎ坐しき。故[かれ]、国造[くにのみやつこ]、神吉詞[かみよごと]奏[まを]しに朝廷[みかど]に参向[まゐむ]かふ時、其の水沼[みぬま]出[い]だして用ひ初[そ]むるなり。 此[ここ]に依りて、今も産婦[はらめるおみな]、彼[そ]の村の稲を食[くら]はず。若し食へば、生[う]まるる子已[すで]にもの云[い]はず。故[かれ]、三澤[みざは]と云ふ。即ち正倉あり。

 横田郷[よこたのさと]、郡家[ぐうけ]の東南二十一里なり。古老の傳へに云へらく、郷の中[うち]に田四段許[よきだばかり]あり。形聊[いささ]か長し。遂に田に依りて、故[かれ]横田と云ふ。即ち正倉あり。以上の諸[もろもろ]の郷より出す所の鐵[まがね]、堅くして、尤[もつと]も雑具[くさぐさのもの]を造るに堪[た]ふ。
澤社[みざはのやしろ]  伊我多気社[いがたけ]  以上二所は、並びに神祇官にあり
玉作社[たまつくり]    須我乃非社[すがのひ]
湯野社[ゆぬ]    比太社[ひだ]
漆仁社[しつに]   大原社[おほはら]
印支斯里社[いなぎしり]  石壷社[いはつぼ] 以上八所は、並びに神祇官にあらず

以降に山、野、戀山、川、道の説明が続く。
 

其の澤[さわ]の水沼[みぬま]とは、仁多町三澤城跡の刀研池といわれる泉がその名残とされる。




 伊賀武神社
島根県仁多郡大字佐伯116 mapion

鳥居

交通案内
JR 三成駅下車 北西4km

祭神
五十猛命
配 武御名方神、豐磐窗命、櫛磐窗命
摂社
八重垣神社「須佐男命、稻田姫命 配 足名槌命、手名槌命」
八重垣神社元宮
八重垣神社は須佐男命の大蛇退治に縁深い佐白地内「八頭」に鎮座し、手名槌・足名槌の末裔と称する馬庭氏の鎮守神であった。
この神社の元の鎮座地周辺には、手名槌・足名槌の「長者邸」という屋敷跡、その庭の白椿の「連理の大樹」(枯損)、二神の杖であったという「立身竹」。二神の遊興の場「茶屋場」、御社頭の稲田姫の髪を梳る時に用いた「元結掛松」、大蛇退治の毒酒を醸した「和泉谷」。大蛇が住んでいた「池の谷」等々の旧跡地があり、往古を偲ばせている。 (神国島根)
西尾神社元宮「天御中主命、天照大御神、月讀命、大山祇命 配 譽田別命」
若杉神社元宮「若姫命 配 須佐男命」
佐白町恵美須神社「事代主命」
八坂神社「素戔嗚命、稻田比賣命」
前布施社日社「天照大神 配 大己貴命、少彦名命、稻倉魂命、埴安姫命」
前布施大仏社「大山祇命」
前布施秋葉社「迦具土神」
瓊々杵神社「稻倉魂命」

社域

由緒
 神社域内にも由緒を書いたものはない。下記の祭礼データにもあるが、創立年号不詳、由緒不詳となっている。 式内の伊賀多気神社と同じ神社名、祭神名である所から、勧請されたのものと思われる。

平成祭礼データの由緒
 創立年号不祥。明治三十九年四月勅令第九十六号により、明治四十年九月二十七日島根県告示第二四○号を以て神せん幤はく料を供進することを得べき神社に指定せらる。
 若姫命は布勢村大字佐白字東垣内に鎮座、若杉神社と称す。
 須佐之男命は同社合殿登多和神社と称す。
 由緒不祥といえども明治四年十二月村社に列せらる。しかるに、明治四十年六月二十五日許可を得て、同年十一月二十三日本社に合併す。
 天御中主命、天照大御神、月讀命、大山祇命は布勢村大字佐白字西尾に鎮座、西尾神社と称す。誉田別命は同社の合殿八幡宮の祭神なり。

お姿

本殿

 佐伯氏の拠点だったそうで、当時は繁栄したのであろう。現在も町は明るい雰囲気に見える。神社は町を少し離れた山の麓に鎮座している。

お祭り

例大祭  十月十日

 春殖神社
島根県大原郡大東町大字大東下分1016 mapion

交通案内
JR 幡屋駅 東へ1km、北へ1.5km

祭神
伊弉諾尊、伊弉册尊
配 五十猛尊、譽田別尊、於気長足姫尊

鳥居と石段

由緒
 出雲国大原郡に鎮座。出雲国風土記記載の春殖社である。 斐伊川支流の赤川の支流の山田川沿いの山裾に鎮座する古社である。
 斐伊川とは斐伊の地域を流れる川を言うとする説がある。横田町の奥の船通山に素盞嗚尊・五十猛命が降臨したとの伝承があるが、昔の川の呼称では斐伊川の上流には当たらないという。良い鉄を産するが、確かに古墳にしても6〜7世紀の小規模な横穴式のものしか出ていない。 横田地域は弥生は言うにおよばず、古墳時代にも極めて貧しい文化的な地域であったようだ。

 それに比べると大原郡は出雲国風土記でも、多くの豪族の存在を示唆している先進地域であった。 素盞嗚尊が端が流れ来るのを見つけた川とは赤川の斐伊川との合流地点より上流と想定されている。

 これは聞いた話だが、五十猛命がこの辺りで、始めて斐伊川下流域に向かって木種を投げた所だそうである。何か碑でも立っているのだろうか。

お姿
 村のはずれの小高い山腹に鎮座、よく清められたすがすがしさを感じさせる神社である。

本殿

お祭り

春祭  三月十三日
秋祭 十一月 三日

 揖夜神社(いや)
島根県八束郡東出雲町揖屋2229 mapion

鳥居

交通案内
JR 揖屋駅下車 北側を東に1km

祭神
伊弉冉命、大己貴命、少彦名命、事代主命
摂社
韓國伊太神社「素盞嗚命」五十猛命である。
三穂津姫神社「三穗津姫命」
恵比須神社「事代主命」
稲荷神社「倉稻魂命」

社域

由緒
風土記の意宇郡の条に、伊布夜社が二座あり、一つが後に記す同社坐韓国伊太氏神社であるが、もう一つが『日本書紀』斉明天皇五年の条に出てくる言屋社とされるのが当社である。 また『古事記』に「今、出雲国の伊賦夜坂と謂う」とある、死者の国との境である黄泉比良坂、を云う。 「イフヤ」と云う言葉があって、後に「イヤ」「ユヤ」に変わる。阿波の山奥の祖谷、紀州熊野については、御坊市に熊野神社と書いて「イヤ」と読む神社が鎮座する。 この熊野神社の由緒は、往古出雲民族が紀伊に植民する際にその祖神の分霊を出雲の熊野より紀伊の新熊野に勧請する途中、「当社に熊野神が一時留まりませる」ということが創祀説話になっている。 この「イヤ」「イフヤ」と云う言葉には死者の国を意味する言葉だったかも知れない。根の国である。そうして記紀神話との関係で、伊弉冉命と「イヤ」との関連が生じたのであるか。

 延喜式神名帳に揖夜神社[イフヤ]同社坐韓國伊太神社[・・カラクニイタテ]と記載されている。
出雲には「同社坐韓国伊太神」と言う名の神社が式内社で六座ある。
意宇郡 玉作湯神社同社坐韓国伊太神社
意宇郡 揖夜神社同社坐韓国伊太神社
意宇郡 佐久多神社同社坐韓国伊太神社
出雲郡 阿須伎神社同社韓国伊太神社
出雲郡 出雲神社同社韓国伊太神社
出雲郡 曾枳能夜神社同社韓国伊太奉神社

韓国伊太神社の祭神について
天保十四(1843)年、千家俊信の考証で、伊太神をして五十猛神、伊太祁曽神とされ、大方の支持を得た定説となっている。 定説に従えば、揖夜神社の同社の祭神が素盞嗚尊となっているが、五十猛命として差し支えはない。

揖夜神社本殿、手前は同社坐韓国伊太神社

 『日本の神々7『(白水社)に石塚尊俊氏の別稿「韓国伊太神社について」が掲載されている。ここに無断転載する。

韓国伊太神社について

「韓国伊太」を名のる神社は『延喜式』神名帳の出雲国にのみ六座もあって、そのうちの三座は意宇郡の「玉作湯神社」「揖屋神社」「佐久多神社」の次にそれぞれ「同社坐韓国伊太神社」と記され、 他の三座は出雲郡の「阿須伎神社」「出雲神社」「曾枳能夜神社」の次にそれぞれ「同社韓国伊太神社」と記されている。
「同社坐」は文字とおり右の社に合祀されているという意味にちがいないが、「同社」はただ右と同じ名の 神社という意味にすざないはずだから(『神道史学』所収拙稿「同社坐と同社について」)、このほうは当時まだ独立社 として鎮座していたことになる。それが今日ではいずれも合祀あるいは所在不明の状態となって、結局はっきり確認できるのは揖屋神社(八束郡東出雲町)・曾枳能夜神社(簸川郡斐川町)境内の二社にすぎない。 しかもこの二社も、実は中絶していたのを明治以後再興したものであるから、本当に古代以来一貫した韓国伊太神社は現存しないとすペきである。
 『延喜式』神名帳には、「韓国」の語を冠する神社が他にもう一座ある。すなわち大隅国囎唹郡の条に記す「韓国宇豆峯神社」である。 一方、「伊太」のほうは、出雲の韓国伊太神社以外にも、「伊達神社」「伊太和気命神社」「射楯兵主神社」「中臣印達神社」といった名で、 陸奥、伊豆、紀伊、播磨、丹波の五ヶ国に合計六座が記されており、出雲の韓国伊太神社を加えれば十二座に達する。 つまり「韓国」にしても「伊太」にしても、決して出雲だけの神社でなかった。 しかし集中的に多かったのは、やはり出雲であったことになる。
 韓国伊太の意味については、天保十四年(一八四三)の奥書のある千家俊信の『出雲国式社考』が、 「五十猛命を拝祭る。韓国といふ語を冠せられしよしは」として、五十猛命が韓国と往来されたという紀の一書の話を引き、「は気とかよひて五十猛と同じ」と説いている。 つまリイタテはイタケルの転で、この神が韓国と往来されたことから頭に「韓国」という語を冠するようになったというわけてある。 これに対して先年志賀剛氏は、イタテはユタテすなわち湯立であり、要するにト占の神てあって、その頭に「韓国の語を冠するのは、遠来の神に新鮮な霊力ありとした古代の信仰からくるであらう」(「『神道学』十所収「伊達神社新考」)という説を出された。
 一つの着眼点は、播磨国飾磨郡の射楯兵主神社二座の場合である。 これはその名が示すように、射楯神と兵主神とを併せ祀るものてあるが、この射楯神についてはすでに『播磨国風土記』因達里の条にその由来譚が載っている。すなわち「因達」というのは「息長帯姫命、韓国を平らげむと欲して渡り坐しし時に、御船の前に坐しし伊太之神、此の処に在しき、故、神の名に因りて里の名と為す」というもので、 ここでも「韓国」が絡んでいる。つまり「韓国を冠記しないイタテの神にも、やはり韓国がかかわっていたのである。
 射立兵主神社のいま一方の祭神である兵主神については『延喜式』に例が多く、大和・和泉・三河・近江・丹波・但馬・因幡・播磨。壱岐の各国にわたって十九社・二十一座の多きを数える。 その多くは大己貴命・素盞嗚尊・を祭神としているが、元来この「兵主」という語は古代中国に起因し、『史記』封禅書に記す天主・地主・兵主・陰主・陽主・月主・日主・四時主の八神中の一つであるとされている。 したがって、この神もまた渡来人すなわち「韓国」との関連を想定せぎるをえない。
 由来、中国・朝鮮半島の神を迎え祀る例は多く、『古事記』にも「韓神」「曽富理神」という明瞭な例がある。 つとに喜田貞吉・折口信夫・三品彰英・西田長男の諸氏が明らかにされたように、ソホリは今日の「京城」と同根のソフル、すなわち王城の意で、原義的には神霊の来臨する聖域の意味であった(西田長男『日本神道史研究』十)。 つまり、韓神はもちろん曾富理神も、やはり渡来人が将来した「今来の神」であったが、その今来の神たる韓神をつとに宮廷では園神とともに宮内省に奉斉し、園韓神祭として春秋ににこれを祭り、またその名は御神楽の曲目にもなっている。 一方、曽富理神は、さきにも触れた韓国宇豆峯神社に玉祭神として祀られている。
 こう考えると、出雲の韓国伊太神社も、やはりこの今来の神の信仰と無縁のものであるとは思えない。 つまり「韓国」はやはり韓国そのものを意味し、そしてこれを冠する伊太神の原義は、あるいは「射立」神、すなわちかの八幡神が八旒の幡によって降臨されたというように矢となって降臨された神ということではなかったか。
 出雲と韓国との交流は深い。紀の一書には素盞嗚尊・五十猛命が往来されたとあり、『出雲国風土記』には新羅の一部を引いたという国引きの話がある。 こうした話にはやはりそれなりの史的背景があったであろうし、その痕跡が神社の場合はこの韓国伊太神社であると見ることもできる。 しかしそうした彼の地との交流も、時がたち、国家の基礎が定るころになると、もっぱら北九州・瀬戸内・大和のラインを通して行 なわれるようになり、出雲はおのずからその本通りではなくなっていった。 かくして出雲における韓国系要素もやがてはその存立の基盤を失うことになる。 けだし、風土記のころにはまだすべて独立社であった伊太神社が、それから二百年後の『延喜式』のころにはその半数が合祀社となり、やがてそれも消滅していく背景には、そうした歴史的な動きがあったにちがいない。

平成祭礼データCD(神社庁)の由緒


 揖夜神社御由緒略記
謹みて按ずるに當社は
 伊弉冉命  大巳貴命
 少彦名命  事代主命
の四柱大神を齊き祀る。その御鎮座の由緒はえい沓遠にして詳悉すべからずと云へど も、既に古事記神代巻には伊賦夜坂に就いて記され、降って日本紀齊明天皇御紀五年 (紀元1319年1275年前)是歳の絛に言屋社言屋此云伊浮耶出雲風土記に伊布 夜社延喜式神名帳に揖夜神社と載せられたり、古来朝廷の御崇敬厚く、三代實録に清 和天皇の貞観九年五月二日(紀元1527年1617年前)揖屋神従五位上、同十三 年十一月十日(紀元1531年1613年前)揖屋神正五位下御神階の御事見え特に 出雲國造奉仕の神社として仄くより別火の職を定めらる。固より歴代武将の崇敬も他 に異なるものあり、天文十二年三月廿七日(紀元2203年391年前)大内義隆は 太刀神馬を進獻し、同廿四年二月廿八日(紀元2215年379年前)尼子晴久は出 東郡氷室庄の内百貫を寄進し、天正十一年十一月廿四日(紀元2243年151年前 )毛利元秋は社殿を造立し、慶長六年卯月廿六日(紀元2261年333年前)堀尾 吉晴は社領四十石を寄せ、元和元年十一月廿七日(紀元2275年319年前)同忠 晴は社殿を再建し、寛永十一年九月廿六日(紀元2294年299年前)京極忠高は 舊領を安堵し次いで社殿の修造を行ひしが、更らに松平氏に迄っては、寛永十五年十 二年六日(紀元2298年296年前)初代直政社領五十三石を定めて年中の祭事を 執行はしめ爾来歴代の藩主咸この例によれり、而して社殿の營繕は所謂御修覆社とし て同藩作事方の手に成り、御遷宮には藩主の代参立ち、又古例によりて出雲國造の奉 仕ありき。明治五年二月郷社に列し、同四十年四月廿八日勅令による神饌幣帛供進神 社の指定を受け、大正十五年十一月廿二日縣社に昇列す。

當社は意宇六社(熊野神社・神魂神社・八重垣神社・六所神社・真名井神社・揖夜神社)の一として広く知られ、六社参りと唱へ参拝者が甚だ多い。

お姿

揖夜神社拝殿

 よく整備されている荘厳な神社。揖屋の町、東の丘の麓に鎮座、本殿に向かって左が韓国伊太神社、右が三穂津姫神社である。 ペンネーム泊瀬女さんの神社参拝記に、拝殿の左右の階段を登って行けば、直接本殿や摂社の鎮座する場所に出られることが記されていた。 事前にこのような予備知識を得て神社参詣を出来るのはありがたいもの。

 拝殿前の摂社群の所にカンジョ縄が幾つか祀られている。

お祭り

大祭  例祭  十月十九日
 祈年祭 四月十九日
 新嘗祭 十一月二十五日
古傳祭 田打祭 一月三日
    田植祭 六月
穂掛祭 八月二十八日
一ツ石神幸祭 同日

韓國伊太神社
    秋季例大祭 10月19日



 熊野大社
島根県八束郡八雲村熊野2451 mapion

熊野大社へお参り
 

 

交通案内
松江より熊野行きバス熊野大社下車

祭神
神祖熊野大神櫛御気野命

摂社
稲田神社「奇稻田姫命 配 脚摩乳命、手摩乳命、少彦名命、武御名方神」

伊邪那美神社「主 伊邪那美命 合 磐坂日子命、埴山姫命、 稚産靈命、天兒屋根命、猿田彦命、天宇受賣命、五十猛命、麓山祇命、爾保都比賣命、 山雷神、速玉之男命、天照大神、月夜見命、天熊人、保食命、事解男命、速玉之男命、 岐神、長道磐神、煩神、開囓神、道敷神、八雷神、菊利姫命、泉守道命、須佐之男命、 大山祇命、大國主命、蛭子命、足仲彦尊、氣長足姫尊、譽田別尊

五十猛命と爾保都比賣命が合祀されている。

荒神社「荒神(こうじん)、祭神不詳」

稲荷神社「宇迦之御魂神」

熊野大社拝殿

由緒
 出雲国風土記には熊野大社と杵築大社(現出雲大社)の二社のみが大社であり、熊野大社が筆頭だった。 出雲国造神賀詞でも「出雲の国の青垣山の内に、下津石根に宮柱太敷き立て、高天の原に千木高知りて坐す伊射那伎の日真名子、加夫呂伎熊野大神櫛御気野命、国作り坐しし大穴持命、二柱の神」と先に熊野大神の名が出る。

 熊野大神は天津神、大穴持命は国津神との差が付いているようだ。出雲国造も誓約で誕生した天穂日命の後裔となっているのである。 また、意宇方面の勢力が大和・吉備の勢力と組んで、西の出雲郡方面の勢力を配下におさめたと見る歴史家もいる程である。 一方、意宇の神こそ大の神で大国主であるとの見方もあり、出雲には小さな国譲り、大きい国譲りの歴史が重なっているのであろう。

 熊野大社の祭神の櫛御食野命を素盞嗚尊とするのは紀伊熊野本宮も同様であるが、これは『先代旧事本紀』の主張で、この書では杵築大社の祭神も素盞嗚尊と主張している。 出雲大社本殿真後ろには素盞嗚尊を祭る祠が鎮座している。出雲大社の拝殿から祈る人々は本殿の大国主命を拝んでいるつもりであろうが、 大国主は本殿の中で西を向いて祀られており、素通りして素盞嗚尊を拝む事になっているのも面白い。

 出雲の熊野大社に話を戻す。本殿の向かって右に稲田神社、左に伊射那美神社が鎮座している。これらは嫁と姑を分けているのではなく、明治後期の神社合祀の賜である。熊野本宮の上宮を伊射那美神社として合祀し、ここへも近隣の小祠の神々を合わせ祀ったと言う。 神職に五十猛命は元々どの村に祀られていたかを尋ねたが、天文11年(1542)大内氏の富田城攻撃の際に社殿が全焼しました。また、明治6年(1873)の意宇川の氾濫により社地の一部が流され、文書類は消失したとの返事であった。

 さて、熊野大社の神職さんから頂いた情報である。
  現在熊野大社の摂社伊邪那美神社に合祀されている楯井神社について、調査研究を書面にする。
 楯井神社は熊野の里の太田と呼ばれる地区にあった小祀である。明治39年に政府による「一村一社制」により熊野大社でも明治41年に熊野氏子地区に多数ある境外社を合祀するに至った。
  楯井神社の御祭神は大田命であるが、以前は太田井命と呼ばれていたようである。この社は楯井(たてい)だが以前の御祭神の太田井命の名から「太」を「おお」ではなく「た」と読み神社名も「楯井(たたい)」と読んだのではないかと推測される。いつしか「太」の「、」と「井」を省くようになり大田命となったのではないだろうか。
  祭神名が出たところで、ひとつ疑問が出てくる。この大田命は『記紀』等諸神話であまり聞かない名前である。
 なにか有名な神の別名なのでは?と考えるのが一般的であろう。やはり昔の人も同じことを考え緒論があるが、
 一番有力とされているのが猿田彦命である。当社の大正時代の社史にもそのように書かれている。
 あまり一般的ではないが太田という地名から五十猛命と考えることもできる。今回はこの五十猛命説を考えてみたいと思う。まず、熊野氏子太田地区の更に奥へ行ったところに昔「イソタケ」と呼ばれた地区がある。
 しかし確かに五十猛命を祀っている小祀があるが、それは熊野氏子地区でもなければまた合祀した記録も無い。現在も残っているのである。そこで考えたのが「イソタケ」地区の人間が太田地区まで移住してきたと考えてみると自分たちの崇敬してきた神が移住先の社にない、そうすると分霊を持ってくるか元々鎮座している大田井命を五十猛命として仰いだと考えられるのではないだろうか。しかし移住してきた一部の人間であるが故に結局は大田井命はそれでしかなかったと考えられる。先住の人間には敵わないであろう。
以上

 紀州の熊野神は後に皇室の崇敬する所となって繁栄し、蟻の熊野詣でとまで言われる程になった。 出雲のお膝元にまで紀州系の熊野神社が勧請されているとの事、出雲国内で61社あると言う。

 往古、出雲で炭焼きを業としていた有馬氏が遙か紀の国に移動したと言う。三重県の熊野市有馬が落ち着き先であったか。 ここにも伊射那美神を祭る花窟神社が鎮座する。また、途中かとも思われる御坊市には熊野(いや)神社が鎮座、由緒には、「往古出雲民族が紀伊に植民する際にその祖神の分霊を出雲の熊野より紀伊の新熊野に勧請する途中、当社に熊野神が一時留まりませる」とある。 「いや」と読ませて、伊射那美神であるので、揖屋神社も同じ系統かも知れないし、また阿波の祖谷(いや)の入り口にも延喜式の伊射奈美神社[イサナミ](現在の高越神社か)が鎮座している。 黄泉の国の神、根の国の伊射那美神の原郷が出雲にあったのかも知れない。

 熊野の名を持つ式内社は以下の通り。
近江国高嶋郡 熊野神社[クマノ]初め水神彌都波乃売命を勧請。
越中国婦負郡 熊野神社[クマノ]往古この地を開発した出雲民族が郷里において崇敬していた八雲の熊野大社の神を祀った
丹後国熊野郡 熊野神社[クマノ]
出雲国意宇郡 熊野坐神社[クマノ](名神大)
紀伊国牟婁郡 熊野坐神社(名神大)
 全ての熊野社に参詣した訳ではないが、平野部から離れた山間部に鎮座している。平野部の人々からは聖地として見えたのであろうが、それは山々に降る雨を蓄え、下流域を潤す水源の神でもあり、また必要な木材を供給する山々の神の坐す所と見たのであろう。 豊穣を与える神であった。
 この出雲の熊野大社の現在の社は下宮であって、数百メートル上流に熊野山(天狗山)があり、上宮が鎮座していた。 神体山である。

熊野大社本殿

お姿
 意宇川を遡った山裾に鎮座している。出雲の山中としては比較的幅のある平地が続く。 印象としては大和の宇陀のような感じであった。いかにも素朴な古代を偲ばせる景色に鎮座している。 米作以外には木材位しかないように見える。特に古代にはそうであったろう。水神、木神を祀ったものと思われる。

鑽火殿


伊邪那美神社

お祭り
☆4月13日  御櫛祭(春大祭)
☆6月30日  夏越祭(大祓)
☆10月14日 秋大祭
  八月中旬  熊野ふるさと祭

伊邪那美神社  合祀記念祭 10月15日



 嘉羅久利神社
島根県安来市広瀬町広瀬364 mapion

交通案内
JR 安来駅からバス広瀬行き広瀬 西北へ500m、北へ1.5km

祭神
素盞嗚尊、韓国五十猛命

鳥居

由緒
 出雲国風土記意宇郡記載の佐久多神社(同社韓国伊太神社であると思われる。 佐久多神社は上来待本宮神社に合祀されたと加藤義成氏の『出雲国風土記』の解説に記載されているが、諸説ありそうである。 例えば『日本地名学研究』(中島利一郎氏)には、「嘉羅久利神社を佐久多神社の同社坐韓国伊太神社(からくにいだて)の訛、加栗神社とも呼ばれた。」と記されている。 確かに、この神社の祭神名は韓国五十猛命となっており、韓国伊太神を表現したものと思われる。 一方、上来待本宮神社とは距離がありすぎるのではないかと思う。

 『神国島根』によれば、「天明元[1,784]年源近義公神告を受け社殿を三笠山頂より現在の鎮座地三笠山麓に移し修復の上二柱の神造を刻し奉納せらる。」とある。

拝殿

お姿
 三笠山の麓、中央運動公園の北側に鎮座、遷座してようだ。
 ひっそりと鎮座している。社域は小さいが決してみすぼらしい雰囲気を与えない神社である。

本殿

お祭り

例大祭 十月二十四日


 小馬木宇佐八幡神社

島根県仁多郡横田町大字小馬木796

鳥居

交通案内
JR 三成駅から小馬木行きバス小馬木下車 正面の小鷹山 mapion


祭神 『神国島根』による。
誉田別命 配祀 息長足姫命、田心毘賣命、湍津毘賣命 市杵島毘賣命

摂社
伊勢神社「天照大御神」
六神社「大己貴命、五十猛命、素盞嗚尊、武内宿禰、経津主命、猿田彦命」
杉山神社「大己貴命」
板敷神社「樟日命」

『平成祭礼データ』
祭神 仲哀天皇 應神天皇 神功皇后

摂社
八王子権現「大己貴命」
板敷神社「樟日命」
若杉大明神「素盞嗚命」
金屋子社「金山彦命」
大森大明神「大己貴命」
山王権現「大己貴命」
貴布袮大明神「瀬織津姫命」
釼大明神「素盞嗚命」
乳子神社「少彦名命」
若宮社「仁徳天皇」
萩原権現社「經津主命」
若宮神社「日本武命」
本谷大山神社「大己貴命」
万九千神社「大穴牟遲命」
湯迫荒神社「素盞嗚命」

八幡社本殿


由緒
 『神国島根』によれば下記の通り。

 由緒不詳。 宇佐神宮古文書に「宇佐神宮御方霊を出雲国仁多小鷹山に奉仕せし」との記録がある。 延宝五年(1677年)以降の本社遷宮の棟札九枚現存、また明治初年まで出雲国造より別社一例格の待遇を受けていたとのこと。

 八幡神の勧請の年代は不明と云う事であるが、近隣の横田町には12世紀に石清水八幡宮の荘園となっているし、 信濃源氏の諏訪部氏が斐伊川下流の三刀屋郷、飯島氏が三沢郷に来住している。 北条時頼の兄の時輔領ともなっていたようで、この場合には鶴岡八幡宮からの勧請だろうが、中世以降、八幡宮の勧請が行われているようだ。 出雲は神々の国とされるが、出雲国風土記記載の神社の近くにはあまり他の神社は見当たらないような気がする。 作るまでもなかったと云う事だろうか。 民草の息吹を感じる風土記記事ではあるが、やはり権力者の産物、人々の神祭りへの大きい規制になっていたのかも知れない。

 五十猛命を祀る由緒は勿論わからないが、横田郷には伊賀武神社や鬼神神社と云う五十猛命に縁の神社が鎮座、三澤郷にもあり、 五十猛命を奉戴する人々が住み着いて金属採取や炭焼きを行っていたのかも知れない。

 小馬木鉱山はモリブデン、タングステン、輝水鉛鉱、鉄マンガン重石、水晶、ザクロ石を含む鉱石が出土していたようである。

摂社群 右の右端が伊勢社,他は不明
 

お姿
 村の中央の小鷹山頂に鎮座、低い小山である。 注連縄が玄関にある山裾の宮司宅前を回り込んで登っていくと神門に巨大注連縄が見える。あ!出雲だ!と思う。 広庭周辺は杉の大きい木がたつ。樫や五葉松は樹齢400年と云う。
本殿には木彫りの模様が見える。


お祭り

春祭  3月29日
秋祭 9月15日 例大祭


鬼の舌震

 大馬木川沿いの渓谷にある。
粗粒黒蜘蛛母花崗岩からなり,長年にわたる河川の浸食作用により深いV字型警告を形成。 この渓谷は断層節理に沿って浸食がすすみ,約2kmに渡って蛇行を繰り返している。 両岸の岸壁は節理面そのものは急崖をなして谷底に傾斜,谷底には巨礫が累積。 この巨礫の中には平らな面が残されているものが多く残されているのは節理面が残されている。

『出雲国風土記』によれば,阿伊(馬木)に坐す神、玉日女命を慕って和爾(鰐)が上って来た。 玉日女命は大岩で大馬木川をせき止め,会えなくしてしまった。 和爾(鰐)の女姫に対する慕情をして”慕山”(したひやま)と云う。

 渓谷沿いに歩行路がついており,時々水音がブルブルと,まるでふるえているように聞こえる。

鬼の舌震



 高尾神社
島根県仁多郡仁多町大字高尾780

鳥居

交通案内
JR 三成駅から小馬木行きバス上高尾入り口下車 西へ2km mapion


祭神
五十猛命、 (合祀)大國主命、布留魂神

摂社
大山祇神、天照大神、大己貴命、稲倉魂命、少名彦名命、埴安彦命


春日変態造の本殿


由緒
 『神国島根』によれば下記の通り。

 五十猛命は旧三成町(仁多町)大字高尾字田中に鎮座の五十九社神社の祭神、由緒不詳。
大國主命は旧三成町大字高尾字尾白原に鎮座の尾白神社の祭神、由緒不明。
布留魂神は大字高尾字野田原に鎮座の石上神社の祭神、ここも由緒はわからない。
 明治末期上記三社を合併、高尾神社と改称したようである。

 五十九社神社と云う名は何だろう。
五十九柱の神々を祀っていたのだろうか。十九社神社が大原郡大東町に鎮座、由緒では災害などの度に京都近辺の畿内から十六社の神社を勧請合祀したりして遂に十九柱の神々を祀るようになったのが名称の由来だそうだ。 出雲大社にも東西に十九社が鎮座、八百萬神を祀っている。それが高じての五十九社だろうか。
五十九社の訓み始めは、イソかも。安曇磯良丸なる海人族の安曇氏の祖神がいたが、まさか磯良丸が磯丸、そして磯九、遂に五十九などと。
祭神から素直に考えて、五十は五十猛命の五十、九社は許曾、伊太祁曽と同じ意味になる。これが正解か。
 鎮座地の高尾も五十猛命を示しているように感じる。但馬国藪郡の高尾に鎮座する御井神社、伏見稲荷大社の猛男社も須佐之男命を祭神としているが、 五十猛命かも知れない。ここらは単なる推測。

拝殿

お姿
 上高尾へは上り坂が続く。遠くからも杉の大きい木が見える。 神社などの聖地の木々はさわられていないので独特の雰囲気があり、神社を見付けるに重宝である。 人によっては霊気のようなものが天空につながっているので聖地はすぐにわかると云う。訓練によっては誰でも見えると聞くが、 残念ながら、未だ見たことはない。
 高尾小学校への道の西に小振りの鳥居が見えてくる。前の道が狭いので、小さい鳥居でもやっとカメラに入った。 二の鳥居は一の鳥居より大きい。石段を登ると太い注連縄の幅の広い拝殿が出てくる。今度はまた全体の写真がとれない。 後ろへ寄ると石段を下ってしまう。社日大明神の石柱がある。 山の麓に伊賀平山に面して鎮座している。

 神社から船通山の山頂が見える。少し下ると見えない。神社の立地条件の一だろう。


社日大明神


お祭り

秋祭 10月20日 例大祭


 須我非神社(すがひ)
島根県仁多郡仁多町大字三所



須我非神社の森

交通案内
三所の三叉路の北側の道を登る。城山の真南 mapion


由緒

 三沢八幡宮の境内に木をご神体とした社がある。これと同じものが須我非神社にもある。つながりを感じてしまう。

八幡宮の神木 須我非神社の神木
 


須我非神社の由緒

 『出雲国風土記』仁多郡記載社十社の一、須我乃非社である。 現在の城山(じょうやま)に当たる菅火野(すがひぬ)の峯にあった神社のようであるが、 現在は南麓の小丘上に鎮座、もう一社は北側に祠が残っているとの三沢八幡宮の宮司さんの話であった。

 平凡社の『日本歴史地名体系島根県』には、三所郷に須我乃非神社(菅火野神社)が鎮座していたが、現在は仁多町大字郡村の大領に遷されていると記されている。
 大領神社の合祀神に天照皇大神、素盞嗚命、五十猛命の名が見えるのは須我乃非神社を遷した痕跡であろうか。
 また風土記記載社は人気が高いのか、須我乃非神社は城山南北と大領神社の三社となっている。

 須我非神社と天照神社との祠が並び鎮座している。社域は狭いが、狛犬や鳥居は相当古そうである。 境内に苔が蒸している。歩くのが勿体ない。

奧出雲の風景にとけ込むように鎮座している。

須我非神社


須我非神社(左)と天照神社


お祭り

須我非神社 11月20日 例祭 [通称]大根祭


 大領神社(おおりょう だいりょう)
島根県仁多郡仁多町大字郡村597

大領神社の参道

交通案内
亀蒿駅北2.5km mapion


祭神

 伊弉諾命、伊弉册命、速玉男命、事解男命
合祀 天照皇大神、素盞嗚命、五十猛命、月夜見命、稻田姫命、天津日高日子穗穗手見命、豐玉姫命、迦具土命

摂社 若宮神社「木花開耶姫命」


由緒

 神門横の説明板によれば、創建年代は大化の改新の頃と云う。仁多郡の大豪族蝮部臣が郡家大領職にある時に、 当地から西2kmの城山(じょうやま)の峰に鎮座していた須我非神社を遷して、郡家鬼門鎮護の神として祀ったと記す。

 明治初年までは諾册神社と称していたと云う。神社名は変転を経ているようだが、祭神から逆に見るのは危険なことだが、 敢えて云えば熊野神社ではなかったろうか。熊野大社とは川筋が違うので、紀の国の熊野からの勧請かも知れない。
 境内の説明板によると、明治末期に桧山神社「素盞嗚命、五十猛命」を合祀したとしている。

春日造の本殿


お姿

 『出雲国風土記』仁多郡に「仁多と號くる所以は、所造天下大神大穴持命、詔りたまひしく、 「此の國は大きくも非ず、小くも非ず、川上は、木の穂さし交ふ。 川下は、河志婆布這ひ度れり。是は爾多志枳小國なり」と詔りたまひき。故、仁多と云う。

 奧出雲でも特にこの辺りの山々の風景はいずこにも神々が坐すように見える。 神社が多く鎮座していそうであるが,意外と少ない。

 鳥居をくぐるとこけむした参道が見える。奧出雲の神社には特に苔が目立つ。 春先以降の湿度が高いのだろうか。 また参道両脇には杉の巨木が並ぶ。そうして神門、拝殿と太い注連縄、本殿と一列に並ぶのは共通した姿である。

 神社らしいいい神社だ。

神門と拝殿


お祭り

10月19日 例祭


 湯野神社
島根県仁多郡仁多町大字亀嵩1284

砂の器記念碑と湯野神社鳥居

交通案内
JR 亀蒿駅から広瀬町方面(北東)3km mapion


祭神
大己貴命、少彦名命、迩迩藝命、事代主命
合祀 三保津比賣命、大年神、御年神、若年神、香香背男命、素盞嗚命、國常立命、國狹槌命、豐斟渟命、武甕槌命

摂社
隨神社「櫛石窗神、豐石窗神」
玉作神社「櫛明玉命、大己貴命、少彦名命」
上分山の神「大山津見命」
鹿島神社元宮「武甕槌命」
妙見社「天御中主命」
緑の主護神「須佐之男命、五十猛命」
観音堂原山神社「大山津見命」
御崎森神社「大己貴命」
御崎森神社「大己貴命」
貴船神社「高
恵比須神社「大己貴命、事代主命、蛭子神」
西湯野愛宕神社「加具土命」
久比須愛宕神社「加具土命」
金比羅神「大物主命」
湯場乃社「湯野神社の主祭神」
中湯野愛宕神社「加具土命」
山以後谷荒神「須佐之男命和御魂、須佐之男命幸御魂、須佐之男命奇御魂」
中湯野山神社「大山津見命」

本殿


由緒
 通称、大森神社とも呼ばれる。 また亀嵩温泉にちなんで湯野神社と云う名になったという。 『出雲国風土記』記載社で、温泉の医薬の守護神として崇められた。
 他の記載社では仁多郡の玉作社が向かいの玉峯山上に鎮座していたと云う。古老の伝に曰く、山嶺に玉上神を在(いま)せまつる。とある。

 玉峯温泉には仁多町が24億円を投じた玉峰山荘が偉容を誇っている。
 また雲州ソロバンの産地で手作りと質の良さで定評がある。この技術の延長の伝統工芸の木工品作りも行われている。

 松本清張の小説「砂の器」ではこの亀嵩部落改め亀嵩町(碑文は亀嵩集落)のズーズー弁がキイとなって事件は展開解決に向かうのであるが、 このズーズー弁が何故、奧出雲の一部と奧羽に残っているのだろうか。
 確定した説はないようだが、西日本のうどん嗜好と東日本の蕎麦嗜好があるなかで、茶色のそばは,大和王権に従わなかった出雲人が北陸,信州,東北に広めたともいわれている。 出雲と信濃、建御名方命は蕎麦文化を持ち込んだのだろうか。

 もうひとつ平安時代になってからだが蝦夷征伐が始まると杵築神社(出雲大社)が倒壊したそうである。 朝廷は再建のエネルギーを出雲にも注がざるを得ず、力が分散されたという。レズーズータンスだったのかも。

本殿左手の摂社群(石に神名) 右手の摂社の祠
 

お姿
 緒方拳が駆け上がった石段を登ると次に参道が100m程続く。両側に10mおきに杉の木が整然と並び立つ。 こけむした参道をゆっくり進むと冷気とともに霊気を感じる気分。 拝殿の太い注連縄は勇気を与えている。

 五十猛命を祀る緑の守護神の祠や石は見つけることが出来なかったが、全体が緑の守護神とよぶにふさわしい。

参道の風景


お祭り

 3月21日 祈年祭
 10月21日 例大祭

緑の守護神例祭 5月 3日


「平成祭礼データCD」湯野神社
由緒・沿革
創立年代は詳らかでないが、六国史及び出雲風土記所載の神社にして、亀嵩温泉の医薬の主護神として創建された神社である。
社名は「中湯野、西湯野、湯野の小川」など出雲風土記関係や雲陽誌・出雲神社巡拝記・出雲国神社考にあるがごとく、亀嵩温泉に関する地名から「湯野神社」となったものである。古文書、古記録、棟札によれば、温沼神・湯野社・大森大明神・湯野社大森大明神・大森社・大森神社・亀嵩大社・中湯野村社・亀嵩神社とあり、又亀嵩の各集落にあった神社(村社)の総氏神であったことは、棟札に総本願のほかに各部落の神社の氏子中より村本願がで、遷宮費もその全集落が負担していることが明記されており、又天保十三年の祭礼神事当人組帳や第二の鳥居の柱と額に「亀嵩大社」と記されていることからも、総氏神であったことを知ることができる。
宸旨をいただく祈願社であったことは、三代実録に清和天皇の貞観十年秋九月二十一日に従五位下、同十三年冬十一月十日に従五位上を授けられていることで知ることができる。
社地は往古字「宮地」と称するところに出湯があって、その地に四間四方の壮大な宮殿があったのを、北条時頼の特命を以てより以上の社殿を改建しようとして、約百米西の現社地に奉遷したのであるが、建立を果たさずしてついに仮宮が本社となって現在にいたっている。
当社には正神主・御權神主・下職・巫職が奉務し、又社の南西に接して常連寺があってその僧とともに祭祀をつかさどり、二十四石四斗ニ升の社領があった。
百六代正親町天皇の頃と思われるが、正神主の千原某が神社領地を専らにしようとして権神主と常連寺を焚殺す。
そのため天正の頃に現社家の祖先恩田大和(職名祝宇江衛門)が神主となって、新らしく神社の寺となった青龍寺の僧とともに祭祀にあたった。
巫職は世襲にして八乙女舞を奉納していたことは雲陽誌に記載されているが、その家系は中絶した。
文久辛酉の年になって、正神主恩田生男と青龍寺の僧寛開とが祭祀を争ってついに青龍寺の僧は祭祀にあずからないこととなる。その後、正神主は家系が「新宮」と改姓して祭祀にあたっている。
下職は明治四年郷社に列せられるまで勤務し、仁多町下阿井の加納六大夫がその家系である。
天正八年己卯三沢の城主三沢少輔八郎為虎にいたるまで、三沢氏が大檀那となって修めて、当時の棟札には氏子や職人の氏名が全くない。神主も三沢に仕えていたことは、天正二年十二月八日に三沢左京為清より当時の神主恩田大和正が猪子狩の手柄により土地を授けられていることからも知ることができる。三沢氏以前のことは判明しないが、三沢氏以後は氏子の修むるところとなっている。
亨和元年辛酉の日に亀嵩町が全焼し、その火がたまたま御修造中の工匠小屋に移り、本殿をはじめ全社殿を消失するも玉殿は無事に奉遷した。
慶応三年丁卯十二月晦日に正神主の家に火災があり、多数の文書や宝物が焼失した。
明治四年七月四日太政官達「郷社定制」により同年十二月十二日付を以って郷社に列せらる。
明治三十九年勅令第九十六号に依り、明治四十一年一月五日島根県告示第三百六十一号を以って「神饌幣帛を供進することを得べき神社」と指定せらる。又昭和六十一年七月一日島根県神社庁特別神社に指定される。
明治四十一年七月二十日村内字上分に鎮座春田神社・字梅木原鎮座鹿島神社・翌二十一日字西湯野鎮座星神社・字久比須鎮座久比須神社の各村社を、許可をえて合祀した。
境内神社「玉作神社」は古来玉作社・玉造社・玉上大明神と称し、出雲風土記所載の社である。往古は玉峰山上に大杉一株を神木とし、百間四方の社地を有して、同山より産出した水晶を以って玉を作った人々の祈願社であった。元文元年丙辰三月、三沢三郎左衛門為清が、隣接の鬱峰山に築城のため字原谷に遷座した。その後明治四十二年十月十四日、許可を得て同年同月二十二日に境内神社として遷座した。
以上


 比太神社(ひだ)・磐船神社
島根県能義郡広瀬町西比田2452 磐船神社 広瀬町市原

比太神社

交通案内
広瀬バスセンターから西比田 比太神社mapion 
市原別れから南へ2km 磐船神社mapion


比太神社の祭神

吉備津彦命、吉備津姫命
合祀 伊弉諾命、伊弉册命、菅原道眞、押武金日命

摂社
磐船神社「素盞烏尊 五十猛命 稻田姫命」市原神社とも云う。
山王社「大己貴命」
愛宕社「迦倶槌命」三社
荒神社「荒神」四社
瘡守社「祭神不詳」


比太神社の由緒

 比太神社は『出雲国風土記』仁多郡の條に比太社として記載されており、比太河は玉峯山を源流として北上するとしている。

 勧請の年月は不明とのことであるが、祭神は吉備の國の祖神である。
 吉備は出雲の南側に山々に隔てられている。瀬戸内海の海路は確保していたのだが、時の表玄関の海である日本海から朝鮮半島への海路の確保を狙っていたのである。 門脇禎二著『出雲の古代史』によると、吉備津彦などが出雲振根を討伐した伝承(『日本書紀』崇神紀六〇年)の出雲侵入ルートを 吉備の旭川か高梁川から美作から横田、斐伊川のルートを想定している。 横田から東出雲へのルートは比太川を下ることになる。

 所で比太は飛騨、日田と同じ音であり、イタに通じる。飛騨に多く鎮座する五十猛命の神名との関連が注目される。

比太神社の大社造変態の本殿


お姿

 西比太の小山に鎮座、鳥居から64段の石段を上ると広庭がある。 石段数は108段とかその半分とか、数字へのこだわりが見える。

 摂社がありその中に磐船社の名前も見える。 本殿は北向きに鎮座、立地上の問題なのか、吉備の勢力が東出雲へ睨みをきかしているのか、また神社の鎮座する山の北側にも山が迫ってきており、 この地の平地だけが狭くなっている。軍事面でも拠点のように見える。

比太神社の摂社
左から伊勢、稲荷、木野山、磐船、縄久利と社名が見える。

摂社の磐船社へのお参りで満足すれば、磐船神社の壮大な磐座を知ることはなかった。


磐船神社

 市原川沿いを2km程上っていくと、岩船神社の目印があり、それにそって上っていく。 民家に自転車を置かしてもらって、山道を登っていく。途中、狭い道で、草ぼうぼう、何とか道らしい所を山に入ると、 鳥居が立っている。そこに岩船神社まで500mとの標識がある。 山の峰伝いの道にでると、岩がにょっきりと突き出ている。船の先端のように見える。

磐船神社の鳥居 祠手前の船形石
 

 船形石の側を通り抜けて石段をすこし上ると祠があり、 その上部に大きい岩が屋根のように張り出している。圧倒される思いである。

磐船神社の磐座のイメージ

磐船神社の磐座は熊野のゴトビキ岩にも匹敵する。
祠の前からの写真を組合わせたが覆いかぶさっている雰囲気は残念ながら出なかった。


お祭り

 4月22日 例祭
磐船神社 9月26日に近い日曜日 磐船祭り


 出雲大社
島根県簸川郡大社町杵築東195

鳥居

交通案内
一畑電鉄出雲大社駅 北へ500m mapion

祭神
大國主大神
 配祀 天之御中主神、高皇産靈神、神皇産靈神、宇麻志阿斯訶備比古遲神、天之常立神、和加布都努志命

大社風景

摂社
大神大后神社 須勢理毘賣命
神魂御子神社 多紀理毘賣命
伊能智比賣神社 蚶貝比賣命、蛤貝比賣命
門神社(東) 宇治神
門神社(西) 久多美神 寛文年間(1660年)まではアラハバキ社
素鵞社 須佐之男尊
氏社(北) 天穗日命
氏社(南) 宮向宿禰命
神魂伊能知奴志神社 神産巣日神
神大穴持御子神社 事代主神 配祀 御年神、高比賣命
大穴持御子玉江神社 下照比賣命
上宮 須佐之男尊 配祀 八百萬神
出雲井神社 岐神
因佐神社 建御雷神
湊社 櫛八玉神
釜社 宇迦之御魂神
十九社(東) 八百萬神
十九社(西) 八百萬神
下宮 天照大御神
大歳社 大歳神 配祀 八千矛神
祓社 瀬織津比賣神、速秋津比賣神、氣吹戸主神、速佐須良比賣神
杵那築森 大國主大神
大穴持伊那西波岐神社 稻背脛命 配祀 白兔神
阿須伎神社 阿遲須伎高比古根神
出雲森 八束水臣津奴命、事代主命 配祀 御子命百八十柱

拝殿

由緒
 『出雲国風土記』には、杵築郷として、郡家の西北二十八里六十歩なり。 八束水臣津野命の国引き給ひし後。所造天下大神の宮奉へまつらむとして、諸の皇神等宮處に参り集ひて、杵築きたまひき。故、寸付と云ふ。神亀三年に、字を杵築とあらたむ。とある。

 国引きを行った八束水臣津野命のほうがより始原の神のように思われ、この神は出雲大社では摂社の出雲森の祭神である。6月1日に行われる涼殿祭(りょうでんさい)は、本殿での祭典後、宮司や神官は本社東の出雲森に参向、椋の大樹を前に祭事を執行。帰路は御手洗井の場所まで真菰を敷くので「まこもの神事」と云われている。『日本の神々』で石塚尊俊氏は、神霊をお迎えする祭事のようだと書かれている。
 国生みに匹敵する八束水臣津野命への敬意であろうか。

 この神を主祭神とする神社は、國村神社(簸川郡湖陵町多伎久村)、富神社(簸川郡斐川町大字富村)、長浜神社(出雲市西園町)、諏訪神社(平田市別所町)の主祭神として祭られている。國村神社を別にして、他の神社は出雲國出雲郡の式内出雲神社の論社である。同時に同社韓国伊太神社の論社と言えるだろう。

素鵞社

 出雲國出雲郡出雲神社の論社としては出雲大社本殿の真後ろの素鵞社もそうである。すなわち韓国伊太神社の論社と言える。加藤義成氏校注『出雲国風土記』では、出雲神社を素鵝社とされ、御魂社を神魂伊能知奴志神社に比定されている。伊能智比賣神社の祭神が火傷から命を救った蚶貝比賣命と蛤貝比賣命の女神であることから、伊能知奴志神として、韓国伊太神即ち木の俣から根の国にお逃がした大屋彦神またの名の五十猛命とのお考えかもしれない。

本殿の後ろ姿

 素鵞社については、建立の時期が問題で、寛文造営以前(17世紀)の文献や絵には見られないようである。もっと小さい祠だったのかも知れない。八雲山から神楽殿方面へ素鵞川が流れている。素鵞社が江戸時代に出来たようには思えない。佐田の須佐大宮の側にも素鵞川が流れている。

 『島根県の歴史散歩』によれば、大社の主祭神は大国主大神であるが、これはまさに17世紀頃からで、それ以前の11世紀頃からは素盞嗚尊、さらにそれ以前は大国主命であったと云う。祭神交替のおり、