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神話の里出雲での五十猛命の足跡をたどる。武神・樹木神・浮き宝の神・命の神として、妹の神々とともに国土開発をおこなった神、大国主命も頼りにした神、祀られている神社を旅するページ![]()
出雲風土記に記されているカムナビは、神名樋野(意宇郡):茶臼山、神名
火山(秋鹿郡):朝日山、神名樋山(楯縫郡):大船山、神名火山(出雲郡):仏教山の四山である。 出雲独特の居候神「同社坐韓国伊太氏神」が式内社で六座あります。
氏は |
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島根県大田市五十猛町2348
![]() 交通案内 ![]() 一方、五十猛命の降臨地としては、仁多郡の島上の峰(船通山)の伝承もある。更に、対馬、壱岐を経由して有明に上陸したともされている。各地に伝承があるのは、この神を奉ずる一族が、それぞれ渡来したとも思える。
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島根県大田市五十猛町大浦2719 mapion
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島根県大田市大屋町261-1 mapion
拝殿 ![]() 鳥居と小山 ![]()
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島根県簸川郡大社町大字日御碕455 ![]() 交通案内 ![]()
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五十猛命を祀った由来は不明であるが、この地方に多い韓国伊太 ![]()
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島根県簸川郡斐川町大字併川258 mapion
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松江市和多見町81 mapion
![]() 祭神
![]() 由緒
お姿
![]() 力強い雰囲気の神社である。建物がはっきりしている。都会派の神社である。 お祭り
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島根県仁多郡横田町大字横田1278 mapion
祭神
![]() 由緒
![]() この地域は石清水八幡宮の領有するところとなり、横田八幡宮が勧請されている。保元三(1158)年出雲八別宮の一つとして横田別宮となるように、
伊賀多気神社はかえりみられることのない時代があった。廃絶していたのであろう。
![]() 平成祭礼データCDの由緒 お姿 ![]() 御社殿 御本殿 大社造 間口二間 奥行二間 ![]() 斐伊川上流のよい砂鉄のとれる地域である。
「五十猛命の原郷」かも知れないと思ってやっと訪ね来た。黒い大社造の屋根が見えた時にはその威風堂々の姿に感銘した。 この地域は、国策の洋式製鉄の開始によるたたら製鉄の衰退に伴い、往年の勢いがなくなったが、鉄師達が中心になって町の殖産興業のために力を注いだ。
種馬牛の導入、鉄道の開設、電灯会社・銀行の創業そして木炭の改良と次々と事業を興した。 また、雲州そろばんの珠削り技術の開発は、職人の研究心と奥出雲の鋼、鍛冶技術が結びついたものと言える。 お祭り 祈年祭 四月八日
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上宮伊賀多気神社 島根県仁多郡横田町大字大呂2058 mapion ![]() 交通案内
祭神
![]() 社前の由緒書き 慶長九龍集甲辰菊月吉祥日、出雲国造千家元勝撰
![]() 素盞嗚尊、五十猛命がソシモリより帰国して到着したとされる鳥髪の峯とされる船通山を見上げる位置に鎮座する。すなわち、この辺りで、素盞嗚尊に五十猛命が協力して八岐大蛇退治を行ったことになっている。 記紀の本文では簸の川の川上であったとされる。古事記では簸の川上流の「鳥髪の地」と記す。出雲国風土記には「出雲の大川、源は伯耆と出雲の国の堺の鳥上山より出て、流れて仁多郡の横田の村に出て、横田、三処、三沢、布施の四つの郷を経て、大原郡の堺の引沼村に出て、来次、斐伊、屋代、神原の四つの郷を経て、出雲郡の堺の多義村に出て、河内、出雲の二つの郷を経て、北に流れ、更に西に折れて、伊勢、杵築の二郷を経て、神門の水海に入る。いわゆる斐伊の川の下なり」
とある。斐伊川は出雲の大川と同じではなく、その一部を称している。斐伊郷を流れている大川を斐伊川と呼んだと考えられる。すなわち木次町・三刀屋町の境界付近かと思われる。そうするとこの辺の素盞嗚尊、五十猛命の祭神を持つ神社はやはり産鉄の民の奉斎したものと見るべきだろう。 出雲国風土記抄(抄は金偏)から船通山について 砂鉄はチタン分が少ない鉄で溶融点がやや低いそうである。記紀の逆流があって、八岐大蛇退治の話は江戸時代以降に、出雲に普及し、伝承の地も作られていったという。 神社の名前の鬼神であるが、何時の頃の命名か不詳であるが、五十猛命は勇猛神とされていることに関連するのか、木の神を鬼の神と表記したのか、 想像をするだけの段階である。 ![]() お姿 五十猛明の神陵の地とされるが、そのような雰囲気は感じられなかった。田舎のごく普通のじんじゃの面影を残している。後背の山も含めて木々は豊富だ。 ![]() お祭り 祈年祭 四月十日
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島根県仁多郡仁多町大字三沢402 mapion ![]() 交通案内
祭神
![]() 由緒
古代の三沢郷 出雲国造が神賀詞を奏上するべく朝廷におもむく際、三沢の泉水で禊ぎをおこなったという。 お姿
![]() ![]() お祭り 例祭 四月十一日
其の澤[さわ]の水沼[みぬま]とは、仁多町三澤城跡の刀研池といわれる泉がその名残とされる。
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島根県仁多郡大字佐伯116 mapion ![]() 交通案内
祭神
![]() 由緒
平成祭礼データの由緒 お姿 ![]() 佐伯氏の拠点だったそうで、当時は繁栄したのであろう。現在も町は明るい雰囲気に見える。神社は町を少し離れた山の麓に鎮座している。 お祭り 例大祭 十月十日 |
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島根県大原郡大東町大字大東下分1016 mapion 交通案内
祭神
![]() 由緒
それに比べると大原郡は出雲国風土記でも、多くの豪族の存在を示唆している先進地域であった。 素盞嗚尊が端が流れ来るのを見つけた川とは赤川の斐伊川との合流地点より上流と想定されている。 これは聞いた話だが、五十猛命がこの辺りで、始めて斐伊川下流域に向かって木種を投げた所だそうである。何か碑でも立っているのだろうか。 お姿
![]() お祭り 春祭 三月十三日 |
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島根県八束郡東出雲町揖屋2229 mapion ![]() 交通案内
祭神
![]() 由緒
延喜式神名帳に揖夜神社[イフヤ]同社坐韓國伊太氏神社[・・カラクニイタテ]と記載されている。 韓国伊太氏神社の祭神について
![]() 『日本の神々7『(白水社)に石塚尊俊氏の別稿「韓国伊太氏神社について」が掲載されている。ここに無断転載する。
當社は意宇六社(熊野神社・神魂神社・八重垣神社・六所神社・真名井神社・揖夜神社)の一として広く知られ、六社参りと唱へ参拝者が甚だ多い。 お姿 ![]() よく整備されている荘厳な神社。揖屋の町、東の丘の麓に鎮座、本殿に向かって左が韓国伊太氏神社、右が三穂津姫神社である。 ペンネーム泊瀬女さんの神社参拝記に、拝殿の左右の階段を登って行けば、直接本殿や摂社の鎮座する場所に出られることが記されていた。 事前にこのような予備知識を得て神社参詣を出来るのはありがたいもの。 拝殿前の摂社群の所にカンジョ縄が幾つか祀られている。 お祭り 大祭 例祭 十月十九日 韓國伊太氏神社
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島根県八束郡八雲村熊野2451 mapion ![]() 交通案内
祭神
摂社 伊邪那美神社「主 伊邪那美命 合 磐坂日子命、埴山姫命、 稚産靈命、天兒屋根命、猿田彦命、天宇受賣命、五十猛命、麓山祇命、爾保都比賣命、 山雷神、速玉之男命、天照大神、月夜見命、天熊人、保食命、事解男命、速玉之男命、 岐神、長道磐神、煩神、開囓神、道敷神、八雷神、菊利姫命、泉守道命、須佐之男命、 大山祇命、大國主命、蛭子命、足仲彦尊、氣長足姫尊、譽田別尊 五十猛命と爾保都比賣命が合祀されている。 荒神社「荒神(こうじん)、祭神不詳」 稲荷神社「宇迦之御魂神」 ![]() 由緒
熊野大神は天津神、大穴持命は国津神との差が付いているようだ。出雲国造も誓約で誕生した天穂日命の後裔となっているのである。 また、意宇方面の勢力が大和・吉備の勢力と組んで、西の出雲郡方面の勢力を配下におさめたと見る歴史家もいる程である。 一方、意宇の神こそ大の神で大国主であるとの見方もあり、出雲には小さな国譲り、大きい国譲りの歴史が重なっているのであろう。 熊野大社の祭神の櫛御食野命を素盞嗚尊とするのは紀伊熊野本宮も同様であるが、これは『先代旧事本紀』の主張で、この書では杵築大社の祭神も素盞嗚尊と主張している。 出雲大社本殿真後ろには素盞嗚尊を祭る祠が鎮座している。出雲大社の拝殿から祈る人々は本殿の大国主命を拝んでいるつもりであろうが、 大国主は本殿の中で西を向いて祀られており、素通りして素盞嗚尊を拝む事になっているのも面白い。 出雲の熊野大社に話を戻す。本殿の向かって右に稲田神社、左に伊射那美神社が鎮座している。これらは嫁と姑を分けているのではなく、明治後期の神社合祀の賜である。熊野本宮の上宮を伊射那美神社として合祀し、ここへも近隣の小祠の神々を合わせ祀ったと言う。 神職に五十猛命は元々どの村に祀られていたかを尋ねたが、天文11年(1542)大内氏の富田城攻撃の際に社殿が全焼しました。また、明治6年(1873)の意宇川の氾濫により社地の一部が流され、文書類は消失したとの返事であった。 さて、熊野大社の神職さんから頂いた情報である。 紀州の熊野神は後に皇室の崇敬する所となって繁栄し、蟻の熊野詣でとまで言われる程になった。 出雲のお膝元にまで紀州系の熊野神社が勧請されているとの事、出雲国内で61社あると言う。 往古、出雲で炭焼きを業としていた有馬氏が遙か紀の国に移動したと言う。三重県の熊野市有馬が落ち着き先であったか。 ここにも伊射那美神を祭る花窟神社が鎮座する。また、途中かとも思われる御坊市には熊野(いや)神社が鎮座、由緒には、「往古出雲民族が紀伊に植民する際にその祖神の分霊を出雲の熊野より紀伊の新熊野に勧請する途中、当社に熊野神が一時留まりませる」とある。 「いや」と読ませて、伊射那美神であるので、揖屋神社も同じ系統かも知れないし、また阿波の祖谷(いや)の入り口にも延喜式の伊射奈美神社[イサナミ](現在の高越神社か)が鎮座している。 黄泉の国の神、根の国の伊射那美神の原郷が出雲にあったのかも知れない。 熊野の名を持つ式内社は以下の通り。
![]() お姿
![]() 伊邪那美神社 ![]() お祭り
伊邪那美神社 合祀記念祭 10月15日 |
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島根県安来市広瀬町広瀬364 mapion 交通案内
祭神
![]() 由緒
『神国島根』によれば、「天明元[1,784]年源近義公神告を受け社殿を三笠山頂より現在の鎮座地三笠山麓に移し修復の上二柱の神造を刻し奉納せらる。」とある。 ![]() お姿
![]() お祭り 例大祭 十月二十四日 |
![]() 交通案内
摂社 摂社 ![]()
由緒不詳。 宇佐神宮古文書に「宇佐神宮御方霊を出雲国仁多小鷹山に奉仕せし」との記録がある。 延宝五年(1677年)以降の本社遷宮の棟札九枚現存、また明治初年まで出雲国造より別社一例格の待遇を受けていたとのこと。 八幡神の勧請の年代は不明と云う事であるが、近隣の横田町には12世紀に石清水八幡宮の荘園となっているし、 信濃源氏の諏訪部氏が斐伊川下流の三刀屋郷、飯島氏が三沢郷に来住している。 北条時頼の兄の時輔領ともなっていたようで、この場合には鶴岡八幡宮からの勧請だろうが、中世以降、八幡宮の勧請が行われているようだ。 出雲は神々の国とされるが、出雲国風土記記載の神社の近くにはあまり他の神社は見当たらないような気がする。 作るまでもなかったと云う事だろうか。 民草の息吹を感じる風土記記事ではあるが、やはり権力者の産物、人々の神祭りへの大きい規制になっていたのかも知れない。 五十猛命を祀る由緒は勿論わからないが、横田郷には伊賀武神社や鬼神神社と云う五十猛命に縁の神社が鎮座、三澤郷にもあり、 五十猛命を奉戴する人々が住み着いて金属採取や炭焼きを行っていたのかも知れない。 小馬木鉱山はモリブデン、タングステン、輝水鉛鉱、鉄マンガン重石、水晶、ザクロ石を含む鉱石が出土していたようである。 ![]() お姿
春祭 3月29日 鬼の舌震 大馬木川沿いの渓谷にある。 『出雲国風土記』によれば,阿伊(馬木)に坐す神、玉日女命を慕って和爾(鰐)が上って来た。 玉日女命は大岩で大馬木川をせき止め,会えなくしてしまった。 和爾(鰐)の女姫に対する慕情をして”慕山”(したひやま)と云う。 渓谷沿いに歩行路がついており,時々水音がブルブルと,まるでふるえているように聞こえる。 ![]() |
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島根県仁多郡仁多町大字高尾780 ![]() 交通案内
摂社 ![]()
五十猛命は旧三成町(仁多町)大字高尾字田中に鎮座の五十九社神社の祭神、由緒不詳。
五十九社神社と云う名は何だろう。 ![]() お姿
神社から船通山の山頂が見える。少し下ると見えない。神社の立地条件の一だろう。
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秋祭 10月20日 例大祭 |
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島根県仁多郡仁多町大字三所
![]() 交通案内
三沢八幡宮の境内に木をご神体とした社がある。これと同じものが須我非神社にもある。つながりを感じてしまう。 ![]()
『出雲国風土記』仁多郡記載社十社の一、須我乃非社である。 現在の城山(じょうやま)に当たる菅火野(すがひぬ)の峯にあった神社のようであるが、 現在は南麓の小丘上に鎮座、もう一社は北側に祠が残っているとの三沢八幡宮の宮司さんの話であった。 平凡社の『日本歴史地名体系島根県』には、三所郷に須我乃非神社(菅火野神社)が鎮座していたが、現在は仁多町大字郡村の大領に遷されていると記されている。
須我非神社と天照神社との祠が並び鎮座している。社域は狭いが、狛犬や鳥居は相当古そうである。 境内に苔が蒸している。歩くのが勿体ない。 奧出雲の風景にとけ込むように鎮座している。 ![]()
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須我非神社 11月20日 例祭 [通称]大根祭 |
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島根県仁多郡仁多町大字郡村597 ![]() 交通案内
伊弉諾命、伊弉册命、速玉男命、事解男命 摂社 若宮神社「木花開耶姫命」
神門横の説明板によれば、創建年代は大化の改新の頃と云う。仁多郡の大豪族蝮部臣が郡家大領職にある時に、 当地から西2kmの城山(じょうやま)の峰に鎮座していた須我非神社を遷して、郡家鬼門鎮護の神として祀ったと記す。 明治初年までは諾册神社と称していたと云う。神社名は変転を経ているようだが、祭神から逆に見るのは危険なことだが、
敢えて云えば熊野神社ではなかったろうか。熊野大社とは川筋が違うので、紀の国の熊野からの勧請かも知れない。 ![]()
『出雲国風土記』仁多郡に「仁多と號くる所以は、所造天下大神大穴持命、詔りたまひしく、 「此の國は大きくも非ず、小くも非ず、川上は、木の穂さし交ふ。 川下は、河志婆布這ひ度れり。是は爾多志枳小國なり」と詔りたまひき。故、仁多と云う。 奧出雲でも特にこの辺りの山々の風景はいずこにも神々が坐すように見える。 神社が多く鎮座していそうであるが,意外と少ない。 鳥居をくぐるとこけむした参道が見える。奧出雲の神社には特に苔が目立つ。 春先以降の湿度が高いのだろうか。 また参道両脇には杉の巨木が並ぶ。そうして神門、拝殿と太い注連縄、本殿と一列に並ぶのは共通した姿である。 神社らしいいい神社だ。 ![]()
10月19日 例祭 |
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島根県仁多郡仁多町大字亀嵩1284 ![]() 交通案内
摂社 ![]()
玉峯温泉には仁多町が24億円を投じた玉峰山荘が偉容を誇っている。 松本清張の小説「砂の器」ではこの亀嵩部落改め亀嵩町(碑文は亀嵩集落)のズーズー弁がキイとなって事件は展開解決に向かうのであるが、
このズーズー弁が何故、奧出雲の一部と奧羽に残っているのだろうか。 もうひとつ平安時代になってからだが蝦夷征伐が始まると杵築神社(出雲大社)が倒壊したそうである。 朝廷は再建のエネルギーを出雲にも注がざるを得ず、力が分散されたという。レズーズータンスだったのかも。 ![]() お姿
五十猛命を祀る緑の守護神の祠や石は見つけることが出来なかったが、全体が緑の守護神とよぶにふさわしい。 ![]()
3月21日 祈年祭 緑の守護神例祭 5月 3日
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島根県能義郡広瀬町西比田2452 磐船神社 広瀬町市原 ![]() 交通案内
吉備津彦命、吉備津姫命 摂社
比太神社は『出雲国風土記』仁多郡の條に比太社として記載されており、比太河は玉峯山を源流として北上するとしている。 勧請の年月は不明とのことであるが、祭神は吉備の國の祖神である。 所で比太は飛騨、日田と同じ音であり、イタに通じる。飛騨に多く鎮座する五十猛命の神名との関連が注目される。 ![]()
西比太の小山に鎮座、鳥居から64段の石段を上ると広庭がある。 石段数は108段とかその半分とか、数字へのこだわりが見える。 摂社がありその中に磐船社の名前も見える。 本殿は北向きに鎮座、立地上の問題なのか、吉備の勢力が東出雲へ睨みをきかしているのか、また神社の鎮座する山の北側にも山が迫ってきており、 この地の平地だけが狭くなっている。軍事面でも拠点のように見える。 左から伊勢、稲荷、木野山、磐船、縄久利と社名が見える。 ![]() 摂社の磐船社へのお参りで満足すれば、磐船神社の壮大な磐座を知ることはなかった。
市原川沿いを2km程上っていくと、岩船神社の目印があり、それにそって上っていく。 民家に自転車を置かしてもらって、山道を登っていく。途中、狭い道で、草ぼうぼう、何とか道らしい所を山に入ると、 鳥居が立っている。そこに岩船神社まで500mとの標識がある。 山の峰伝いの道にでると、岩がにょっきりと突き出ている。船の先端のように見える。 ![]() 船形石の側を通り抜けて石段をすこし上ると祠があり、 その上部に大きい岩が屋根のように張り出している。圧倒される思いである。 ![]() 祠の前からの写真を組合わせたが覆いかぶさっている雰囲気は残念ながら出なかった。 ![]()
4月22日 例祭 |
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島根県簸川郡大社町杵築東195 ![]() 交通案内
祭神
![]() 摂社 ![]() 由緒
この神を主祭神とする神社は、國村神社(簸川郡湖陵町多伎久村)、富神社(簸川郡斐川町大字富村)、長浜神社(出雲市西園町)、諏訪神社(平田市別所町)の主祭神として祭られている。國村神社を別にして、他の神社は出雲國出雲郡の式内出雲神社の論社である。同時に同社韓国伊太氏神社の論社と言えるだろう。 ![]() 出雲國出雲郡出雲神社の論社としては出雲大社本殿の真後ろの素鵞社もそうである。すなわち韓国伊太氏神社の論社と言える。加藤義成氏校注『出雲国風土記』では、出雲神社を素鵝社とされ、御魂社を神魂伊能知奴志神社に比定されている。伊能智比賣神社の祭神が火傷から命を救った蚶貝比賣命と蛤貝比賣命の女神であることから、伊能知奴志神として、韓国伊太氏神即ち木の俣から根の国にお逃がした大屋彦神またの名の五十猛命とのお考えかもしれない。 ![]() 素鵞社については、建立の時期が問題で、寛文造営以前(17世紀)の文献や絵には見られないようである。もっと小さい祠だったのかも知れない。八雲山から神楽殿方面へ素鵞川が流れている。素鵞社が江戸時代に出来たようには思えない。佐田の須佐大宮の側にも素鵞川が流れている。 『島根県の歴史散歩』によれば、大社の主祭神は大国主大神であるが、これはまさに17世紀頃からで、それ以前の11世紀頃からは素盞嗚尊、さらにそれ以前は大国主命であったと云う。祭神交替のおり、 |