粟田神社(あわた)
京都市東山区粟田口鍛治町1 mapion


交通案内

 京阪京津線蹴上げ西300m(都ホテル西)

祭神

建速素盞嗚尊、大己貴尊、奇稻田媛神、神大市媛神、佐須良媛神、八島小奴美神
五十猛神、大屋彦神、大屋媛神、抓津媛神、須勢理媛神、大歳神、倉稻魂神

由緒 参考:神社本庁平成祭りデータCD

 往古、人皇五代孝昭天皇の皇子天足彦国押人命を祖とする粟田一族がこの地で、鉱物を穿ち、粟瓜を主食として生活をし、神を祀っていた。
 中古、熱田神宮が奉祀されるや熱田の社人として一族もろともに移り、土地の名を残すのみとなった。粟田の臣の産土と云われている由縁である。

 平安朝の初め人皇第五十六代清和天皇、貞観十八年(876)は平安遷都の約八十年程過ぎ、藤原氏の摂関政治もようやく始ろうと、 藤原良房が初めて摂政の位につき、七代・基経が其の後継者としての位置を固めつつあった頃で、 華やかな時代の幕開けであるとともに、疫病、災害等は、怨霊の崇であると御霊をなだめる必要があるとして御霊会信仰が盛んとなってきた時代で、 神祇官・陰陽寮の力が盛んとなってきた。

 貞観十八年の春、秋には、疫病流行し多いに民を悩ますことが起きる。とのお告げにより、 天皇、直に勅を下し、五畿七道(全国)の諸神にお供え物をして、国家と民の安全を祈願された。
 この時、勅使が、感神院・祇園社(現八坂神社)参宮して、丹誠こめて祈願すること七日間、満願の夜、一人の老翁、興世の夢枕に立ちて 『今既に、天皇国家に災変あらんことを聴き、叡慮を痛められる事のないよう、汝すぐに、天皇につたえよ、 天皇の心を痛められること、天の神に通じ吾を祭れば、必ず国家と民は安全なり』 勅使たずねて「このように、いわれる神は如何なる神ですか」老翁答えて
『吾は、大己貴神也、今帝都の東、祇園の東北の地に清きところあり、 この地は昔に牛頭天王ゆかりある地である。京に、牛頭天王を播磨の国・広峰より向えられたとき、大阪の今宮の処に留まられた後、 京の瓜生山(現将軍塚)へ、そこから東光寺(現岡崎神社)へ、それから粟田に、最後の八坂の地にという言伝えがある。さすればこの地に吾を祭るべし』といわれて、 見えなくなりました。夢とは思えず、神意なりと、朝廷に秦上し、ただちに京都の東祇園の東北、粟田の地に社を建て、大己貴神をお祭りす。

長保三年(1001)祭礼の行列の始まりと伝えられている、承安二年(1172)六月・高倉天皇、祇園会を上覧されたとき、 獅子を始め神輿三基を祇園社に奉納された。 これより承安以前の神輿一基あり、この神輿に牛頭天王・奇稲田媛の御神霊を安置して粟田の社に鎮座された、これより当社三座となる。
 八坂神社を感神院と言うのに対し、当社を感神院新宮と称する。 

お姿

 東山三条を東に進むと南側に一の鳥居があり、参道になるが、町の路地である。これを通り過ぎると二の鳥居が見え、緩やかな登り道となる。八坂神社や知恩院のある山の北側に当たる。 中腹に庭があり、本殿や摂社が木々の中に鎮座している。本殿は流れ造りである。

二の鳥居と社殿


お祭り

例祭 10月 9日  御出祭 阿古陀鉾、地蔵鉾、子供の提灯12灯の夜渡り。
   10月10日  午後に神幸祭。柏鉾が巡行。
粟田祭10月15日  14日深夜に瓜生鉾、地蔵鉾や高さ15mの12灯を担ぎ、太鼓をならし「芋も大根も寝たらば起きよ」とはやして町を練り歩く。

五十猛命ホームページ
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