竈山神社(かまやま)
和歌山市和田438 mapion
大阪からの案内
![]() 由来その2神武東遷と五瀬の命の非業の死 邇邇芸の命と木の花の佐久夜比売との子が海幸彦、山幸彦。山幸彦の子が鵜葺草葺不合の命、その長男に五瀬の命、四男に神倭伊波礼毘古がおられた。 二柱の命は天下を泰平にするためにもっと東の方に行こうと相談され、日向の国をお出になって、瀬戸内をたどり、難波の湾を経て河内に至り、ここで大和の登美の那賀須泥毘古の軍と戦い、五瀬の命が負傷 された。 迂回作戦で軍は南に転戦し、紀の国の男の水門に至り、ここで五瀬の命の傷が悪化され、「賤しい奴のために手傷を負って死ぬのは残念」と言われて崩御された。 異説はあるが、竈山神社の背後の古墳が御陵とされている。 ![]() なぜ皇兄の墓がここに? 一方、五瀬命の墓は東西100m、南北200m、守戸3軒と記載されており、これに匹敵する古墳は名草郡では井辺(いんべ)八幡山古墳を大きさと出土品が隼人と関連することから候補にあげる人もいる。*1 吉野は大和の王権の聖地である。ここの制圧は、権力奪取作戦の真珠湾である。皇軍は紀ノ川をさかのぼり吉野へ進入したのではないかとの説が地元にはある。 それは熊野に迂回し、かつそこで必要もないのに船に乗り、別の皇兄を死なせるような事を起こす事は考えにくく、かつ吉野まで果無山脈の峻険な山道を越していくはずがないとの観点からである。 一方、南九州の神武天皇と熊野とは同族的連帯観があり、熊野の衆の後押しを受けて吉野を襲ったとの見方もある。 いずれにしても、大和で権力機構を維持するのには、紀の川の水運の重要性から見て、紀の国の協力は必須である。 その証として、五瀬命の墓を名草の地に残したのもとも推測できるが、平安時代になるとそれが薄れるので、式内大社に列していない。 また、神武天皇が大和で権力を確立したのなら、五瀬命の墓は本来は大和へ遷すべきなのであろう。 たたずまい お社は立派である。五瀬命の古墳とされている森は大きく深い。境内東には幼稚園、西側には運動場がある。近所の子供たちが野球の練習場に使っている。 練習前に拝殿前に整列し、挨拶をしていたのがほほえましい。 ![]() お祭り 6月30日 夏越大祓式(茅ノ輪くぐり) 10月13日 例祭(秋祭) ![]()
*1 日本神話の考古学(森浩一)朝日新聞社 *2 日本の中の朝鮮文化(金達寿)講談社文庫[泉佐野市の文化財」から 関連する神社 境外摂社 静火神社 本来の竈山の地の神、山の鎮火の神 志摩神社 市杵島姫命 伊達神社 、静火神社をあわせ、紀州三所神と呼ばれた。 水門・吹上(みなとふきあげ)神社 蛭子神、大己貴神 (雄橋南400m) 五瀬命御崩御の旧跡との説あり 。 日根(ひね)神社 鵜茅葺不合尊・玉依り姫命(南海泉佐野バス犬鳴山行東上) 一説には古くに移住してきた新羅国王の億斯富使主(おしふのおみ)を祀った 。*2 男(おの)神社 彦五十瀬命・神武天皇(南海樽井駅南2Km) 神武東征の地を歩く 神奈備にようこそ |