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交通案内 紀勢線 天王寺→新宮 祭神 第一殿速玉宮 熊野速玉大神(伊弉諾尊) 第二殿結宮 熊野夫須美大神(伊弉冉尊) 配祀神 第三殿証誠殿 家津美御子命、国常立命 第四殿若宮 天照皇大神 第五殿禅地宮 天忍穂耳命 第六殿聖宮 瓊々杵命 第七殿児宮 彦火々出見命 第八殿子守宮 第九殿一万宮 国狭槌命 第十殿勧請宮 泥土煮命 (泥は土が下についている字) 第十一殿飛行宮 大斗之道命 第十二殿米持宮 面足命 以上を新宮十二社大権現と云う。 境内社 奥御前三神殿、新宮神社、熊野恵比須神社、八咫烏神社、手力男神社 摂社 神倉神社 末社 貴祢谷神社 旧摂社 阿須賀神社 速玉大社拝殿 ![]() 由緒 創立年代は明らかではない。熊野権現御垂迹縁起によると、唐の天台山から飛行し、日本国鎮西の日子山(英彦山)に八角の水晶の姿で降臨し、更に伊予国の石槌山や淡路の遊鶴羽の峰、紀伊国牟婁郡切部山を経て、熊野新宮の南の神倉山に天降ったとされる。修験道の聖地を渡っていることになる。後世の付会と思われる。 速玉大社の見解は新宮は本宮に対する呼び方ではなく、神倉山の宮に対して新しく社殿を現在地に造った事による呼び方としている。現に、本宮と新宮とには元の宮・本社・末社等の関係はないようである。 山の神が川を伝って里の神となるのが通例であるが、神を祀る人間は、概ね川下から上流へ、神々と共に入植していくものであり、新宮に民人が住まないと、中継点の本宮も発展はしなかったものと思われる。 さて神倉山のゴトビキ岩は磐座であり、銅鐸も掘り出されている古い聖地であるが、速玉大社からは山に遮られて見えない。すなわち、神倉神社と速玉大社は基本的には無関係な信仰である。速玉大社はやはり、立地から見て熊野川に坐す神への信仰であろう。本宮と同一の歴史を持つものであろう。 新宮の市街地は広くない。駅→神倉神社→速玉大社→川べり→丹鶴城跡→阿須賀神社と民俗博物館→徐福公園→駅でゆっくり見て3時間ほどの散策コースとなる。 また王子ヶ浜は小石の美しい海岸で遙か黒潮の流れを楽しめる絶景である。また、人々は親切で、神倉神社内で出会った子供達も挨拶をしてくれる気持ちのいい土地である。 ![]() 熊野三神は、基本的には熊野の濃い山々と山から流れ出る豊浄な水への祈念から生じた神々であり、また眼下には太平洋が広がり、太陽は海から昇り海へと沈むまさに常世への接点に祀られた神々である。 これらが、淡路島や名草の海人を通じて国生みの伝承ともつながり、伊弉諾尊、伊弉冉尊にも付会され、また木種を播いたと伝わる素盞嗚尊や五十猛命にもつながったのである。 速玉は水の流れ、夫須美は樟の木と太陽、家津美は豊饒を表す神格ではなかろうか。また神倉の天磐楯[あまのいわたて]は伊達[いだて]につながり、 五十猛命とのつながりも出てくるのである。 物部の遠祖神饒速日命の御子とされる高倉下命が神倉神社の祭神であるが、高倉下命の四世の孫大阿斗足尼[おおあとたじ]が熊野国造に任じられたさい祖神を祀ったのであろう。 また、高倉下命は、五十猛命、一言主命と共に紀の国に天降り、名草の山に後を垂れたと、紀北の射矢止神社には伝えられている。なお一言主命は葛城では、事解之神と呼ばれている。本宮大社、那智大社、阿須賀神社の祭神に事解男神がある。この三柱の神々の動静も紀の国の古代の謎である。 お姿 新宮市街西の千穂ヶ峰の北麓に鎮座、西南の神倉山頂に熊野大神が降臨したと言うゴトビキ岩(神倉神社)があり、熊野川下流1kmに徐福伝説の蓬莱山がある。 大社の社殿は明治16年、打ち上げ花火のために全焼、戦後15年の歳月をかけて昭和42年、現在の社殿が完成した。 神木とされている梛[なぎ]の大木は平清盛のお手植えと伝わる。800年以上の樹齢である。 神木の梛の木 銅板葺熊野造本殿 鏑の宮 天手力男神社 ![]() 天手力男神社は式内社の論社で他には本宮の御戸開神社、和歌山市内の力侍神社がある。 お祭り 例大祭 10月15日 16日 15日 神馬渡御式 熊野速玉大神の祭り 阿須賀神社の神霊を本社へ渡御 16日 御船祭 熊野夫須美大神の祭り 水上の祭典 ![]()
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