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塩屋王子神社 御坊市塩屋町北塩屋1146 infoseek
交通案内
紀勢線御坊駅 南海バス王子前下車 御坊市の地図
祭神
大日靈女貴命 合 祭神不詳十三柱
由緒
美人王子宮と呼ばれる。 里伝に大同年間(806年〜)魚屋権兵衛製塩業を開始するや現位置に一祠を創し、自ら伊勢神宮の御分霊を勧請奉仕したという。
中古の末期、熊野詣が盛んになり、各地王子社が整備された。この塩屋王子社は王子社の中では有名な社である。
お姿
高い石段を登ると拝殿前の広場に出る。社務所の隣に大きい楠木がある。平成10年の台風7号で楠木の枝が折れて社務所の屋根を少し壊している。

お祭り
夏例祭 7月18日、19日
秋例祭 10月18日、19日
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紀伊国続風土記 日高郡 山田荘 北鹽屋浦
○ 美人王子社 境内除地
本 社 方一間半 末 社 金比羅社、船玉社、武塔神社、稲荷社 長 床
村中にあり 御幸記に参塩屋王子此邊又勝地有祓とある即此社なり 今境内に御所の芝といふ所あり 後鳥羽殷の行在所の跡といふ
又大塔宮熊野に潜行し給ひしとき此所にて一宿し給ふといふ 今碑石を建つ 碑文下に録す
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塩屋王子神社歴史研究会・溝口善久氏が解読された碑文
塩屋村は日高川の流れが海に入るあたりにある。昔は製塩を仕事にしていた。塩屋という地名の起こりである。現在、村は南北に分けられている。そのうち北塩屋は、東は小高い山々に続き西は日高川に臨んでいる。その山に向かって数十段の石段を登ると上は平らになっていて樹木が薄暗く茂っている。そこに神社がある。塩屋王子と称している。また美人王子ともいわれている。美人という呼び名は昔の記録には見えない。その起源は分からない。山の上に社がある。そこからは周りの風景を遠望することができる。それで昔(平安時代)帝が熊野に行幸する時には必ず休憩所になっていた。白河法皇の行幸の時、お供の公卿(くげ)たちに命じて神前に歌会を開かせている。また建仁元年(1201年)後鳥羽帝行幸の時の記録「御幸記」(藤原定家筆)に「ここもまた景色の優れた所だ」と書かれているのはここを指しているのである。それ以後弘安4年(1281年)に至るまで数人の帝が行幸している。元弘の乱(1335年)のおり大塔宮(護良親王・もりよししんのう)が難を避けて熊野に落ち延びた時もここに宿泊している。そうすると昔帝たちが熊野に行幸したときに宿泊した建物がまだ残っていたのである。現在、それらの建物はすべて無くなり草木がびっしりと茂った中にその遺跡だけが残っている。土地の人はそこを「御所の芝」と呼んでいる。「芝」とはしめ縄を張った所という意味である。塩屋王子の地形は東はうねうねと続く山々に連なり、西は海岸に臨んでいて、淡路,阿波の山々が広々とした碧海の彼方にかすんで見える。その北は幾つもの山々が重なり合って半円を描くように空にそびえ、くねりながら西に走っている。それに囲まれるように一大海湾が鏡を開いたように輝いている。以上が昔の地形である。その後数百年の長い間に海は土砂に埋まり、日高川の流れも移り広い入り江は数里にわたる肥大な平野となり、そこには村落が密集し、区分された田地が遠くまで広々とかすんでいる。海岸には翠の松林が眉墨を掃いたように数里も続く姿は四季を通じて、えもいえぬ眺めである。花の朝、月の夕の美景は千年前と同じである。これこそ群中の別世界と言えよう。この世に生きる人を見てみるに老人と若者では考え方も違うし身分の上下によって趣味も別々である。ものの見方もみな同じであるはずがない。この岡に登ってかつてここを訪れた数帝が楽しみ遊び一王(大塔宮・護良親王)が恐れ隠れた後が今なお残っているのを見ていると心の底から深い感動が湧き上がってくるのを抑えることができない。ある人は帝たちが風光を賞(め)で楽しんだ様子を追想し、自分もわれを忘れて心ゆくまで楽しみ、詩を朗読したり口ずさんだりして帰るのを忘れてしまうだろうか。ある人は不運だった親王の遺跡を弔い、その威厳のある姿と激しい気迫に打たれて涙を流しむせび泣いてもなお収まらないほどに感動するだろうか。またある人は過ぎ去った長い歴史を見通しさまざまの出来事を見渡してどんな大異変に対しても心を奪われることなく、またさまざまの悲喜劇にも動揺せず悠々として世俗を超えた境地に心を遊ばせようとするだろうか。ここに私は碑を建て文を掘ったが後世この文を丁寧に読んだ人はこの三つのどれかに納得してくれるだろう。天保六年(1835年)乙未夏五月 仁井田好古 模一 甫 須佐神社宮司 広野雅昭氏 他
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塩屋王子神社歴史研究会・溝口善久氏から頂いた『美人王子についての考察』
塩屋王子神社の歴史は古く 六世紀に遡る。そのころ王子神社と呼ばれていたかは不明であるが、日本最古の仏教談話集である「日本霊異記」には(西暦七七五年当時)「紀の麻呂の朝臣は、日高の郡の潮(みなと)に住まいし」とも記されている。潮は川と海の接するところとされ、日高川河口の変遷により、正確な位置は不明であるが、北湊なる地名も存在し、又、権現磯として名を留める塩屋港に熊野権現が上陸し、切目、神倉、飛鳥、速玉の各神社経て熊野大社に還座なされたとの伝えもあり、塩屋全体が出雲王朝の神聖地とされ、高貴なお方が住まわれたことはうなずける。その当時〔七、八世紀〕の美人とは、美しい女の人という意味ではなく高貴な位にある着飾った女官の職名という説が有力である。
紀氏の起こりは欽明天皇の孫 財皇女(たからのこうじょ)が、用明天皇の孫、高向王と結ばれ皇子が誕生し、建皇子(たけるのおうじ)と称した。皇子は成人してからは建部君(たけるべぎみ)と呼ばれた。天皇家の軍事を司り大和明日香の宮に諸国の名代,小代の束ねとして君臨し、七世紀時の藤原京宮城(きゅうじょう)十二問のうちの重要門である建部門を預かり、天皇の即位にも大伴氏と共に立ち会いする。伴(とも)の造(みやっこ)として一大軍事力を擁し紀伊、河内、和泉、摂津、播磨、美作の重要地を有し大和内智の郡(うちのこおり)五条を預かり大いに御活躍された。 その後、八世紀になると、建君の子孫は紀氏を名乗り郡司を拝し、八色の制第二の地位、朝臣(あそん)の位を賜っている。 祭礼は建部君が御崩御された日、重陽の節句10月19にちです。その時代(8世紀)の名残りとして御神儀で「四神の鉾」「雉の羽根をつけた槍」(写真貼付)などがあります。
祭礼の四神の鉾

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塩屋王子神社歴史研究会・溝口善久氏から頂いた川端氏の『塩屋王子神社の謂われ』
塩屋王子神社の歴史は古く 六世紀に欽明天皇の勅命で 金刺(かなさし)の名を給わ
り、名代として日高の郡を預かり塩屋に館を構えた。
時に、別領(わけりょう)即ち皇族領として北塩屋、南塩屋、森、明神川、熊野、岩内
をいい、北塩屋を別の里と称した。
その後、御孫 財皇女(たからのこうじょ)は,用明天皇の孫 高向王と結ばれ皇子が
誕生し、建皇子(たけるのおうじ)と称した。
成人してからは建部君(たけるべぎみ)と呼ばれた。天皇家の軍事を司り大和明日香
の宮に諸国の名代,小代の束ねとして君臨し、七世紀時の藤原京宮城(きゅうじょう)十二門のうちの重要門である建部門を預かり、天皇の即位にも大伴氏と共に立ち会いする。
伴(とも)の造(みやっこ)として一大軍事力を擁し紀伊、河内、和泉、摂津、播磨、美
作の重要地を有し大和内智(うち)の郡(こおり)五条を預かり大いに御活躍されたが、大和の明日香にて崩御(十月十九日)せられ人々はたいへん哀しんだ。
塩屋の人々はこの偉大な建君を慕い、毎年重陽の節句(十月十九日)に御祭礼を行っ
てきた。
これが美人王子の謂われである。その当時の美人とは、美しい女の人という意味では
なく高貴な位にある着飾った官の職名である。
八世紀になると、子孫は紀氏を名乗り郡司を拝し、八色の制第二の地位、
朝臣(あそん)の位を賜っている。
九十九王子は既存の社を王子社に仕立てた。この神社もその例に漏れず塩屋王子神
社と称するようになった。然る後、森に社を建てるなり。
江戸時代中期にはいると藩の政策により塩屋を二つに分けた。北塩屋、南塩屋に目
付を入れ、宗教改革をした。御神体を大国主神から天照大神にすり替えられたのもこ
の頃である。
二十世紀の末、明日香高松塚古墳より壁画が発見された。四神に護られ、衣笠には
いり七人の従者と女官八人を従える図が描かれている。その図は塩屋王子神社古来よ
り祭事として行われている光景である。私が推し量るに明日香高松塚の被葬者は塩屋
の建部君なり。
それ以降、一三〇〇年以上の歴史を重ね現在に至っている。塩屋王子神社には そ
の名残りとして、四神の彫り物がされていお神器の御鉾や、毛槍(雉の羽根をつけた
槍)、などが今も存在する。
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塩屋王子神社 by 溝口建築設計
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