日前国懸神宮(ひのくまくにかかす)
和歌山市宮 mapion
国懸神宮本殿

大阪からの案内
阪和線 天王寺→和歌山
貴志川線 和歌山→日前宮
祭神
御神体 日前神宮 日像鏡
国懸神宮 日矛鏡
御祭神
日前神宮 日前大神
国懸神宮 国懸大神
配祀神 思兼命、石凝姥命、玉祖命、明立天御影命、天鈿女命、天道根命、名草姫命、名草彦命、事代主神、野槌神、宇迦迺御魂命、大山咋命、松平頼雄命、誉田別命、武内宿禰、月夜見命
摂末社群
摂社 天道根神社 天道根命 紀の國造の祖、物部氏降臨防衛の供奉神三十二神の一神
摂社 中言神社 名草姫命、名草彦命
摂社 宇迦迺御魂命、松尾神社、邦安神社、八幡神社、高良神社、月夜見神社、境内末社他に十四社 祭神座数百七十座合祀
本来あるべき摂社 伊太祁曽神社 五十猛命 元々伊太祁曽神社は当地に鎮座との伝承がある。総社であった頃には再度伊太祁曽三神が祀られていたが、今日では見あたらない。
日前大神は天照大神の別名との説明がある。
日前神宮本殿
由来
日本書紀の伝えでは、天照大神が天の岩窟にこもって天地が暗くなった時、思兼命の思慮で、天照大神の姿にかたどった鏡で天の岩窟から出ていただくことになり、石凝姥命が天香山の金を採って日矛を作らせる。又、日鏡を造り奉る神が、紀伊国に鎮座する日前神であるとの主旨が『日本書紀』神代紀に記載されている。
天岩屋の前ではタマフリの呪術として、天鈿女命は逆さまにした槽の上にのって裸に近い姿で踊り、足を踏みとどろかし、神々の笑いを誘い、天照大神に岩窟から出ていただいたのである。
社伝によれば、神武東遷時、この像を、紀伊國造家肇祖の天道根命が賜り、日前神宮の日像鏡、国懸神宮の日矛鏡の両御神体となったのである。
御神体は太陽神ではあるが、松前健氏などの見解では、もともとは皇室神ではなく、紀伊の海人の祀るローカル神であったとされている。平安時代になるが、伝教大師最澄の作と伝えられる『長講法華経後分略願文』巻下に「普願南海道、紀伊七箇郡、名草上下神」、別の文には「名草上下溝口神」「溝口大明神」とあり、これを日前国懸神をさすものとする説がある。紀ノ川南岸平野を潤す宮井川(名草溝)の初期の開発時(多分古墳時代前期)の取水口が神社に隣接しており、水利分配を司る神社の要素もあった。この宮井川を切り開き、名草平野を一挙に農耕地にしたことが紀氏の豪族としての力を盛り上げたものと思われる。
今日でも、日前宮には農耕や水にかかわる祭りが多い。
国懸神宮拝殿
伊太祁曽神社に伝わる社伝によれば、この地には元々 伊太祁曽神社
が祀られていたが、紀伊の国譲りの結果、日前神・国懸神がこの地を手に入れたのである。伊太祁曽神は山東の地に引いたが、その神威いよいよ高く、紀氏のこの地の統一のためには更に伊太祁曽の神々を分遷する願いを朝廷に出したのである。追い打ちをかけたのである。
国譲り達成の為には闘争と和平工作がなされた。国懸神の御神体は矛である。武神である。五十猛命もまた武神として名高い。壮絶な闘争があったのだろう。それが出雲の国譲りや特に神武東征紀での紀の国の戦いの物語の下書きになったかも知れない。
福島県の磐城の式内社佐麻久嶺神社は、日前国懸神宮からの勧請と伝えられているが、その祭神は五十猛命である。まさに、その昔はここに五十猛命が祀られていたのである。国懸神宮拝殿の巽の方角に五十猛命等を祀る摂社があると聞いているが、現在はその跡地も確認できない。
紀伊名所図会を写す。五十猛命、大屋姫、抓津姫が確認できる。この場所は現在は社叢である。
紀伊名所図会
尚、現在は日前神宮と国懸神宮とはまったく同格に祀られており、日前神宮が天照大神とすれば、国懸神宮は紀氏の祖神を祀っており、建国期の紀氏力をいかんなく示しているとの興味ある見解も示されている。
また国懸神には天武天皇が奉幣されている。この頃は日前神より神威が高かったのであろう。志賀剛氏は、懸[かかす]は案山子で[威す]、国懸とは紀の国を威す猛霊であろうとの説を出されている。
日本古代史とアイヌ語 から
アイヌ語から日本の古代史の謎に挑戦しておられる大三元さんの日前国懸の意味についての試論が発表されている。国懸の「懸(かかす)」は『沖縄古語大辞典』には、「かがす: 輝す、 輝かす、生き生きさせる、であろう」とある。国照と云うこと。
「日前」については、出雲国風土記大原郡条の「白前」なる地名は「のかがみ」と読む。つまり「前」を「かがみ」と読む/無理矢理読ませる、可能性がありそうだ。
結論としては、「日前・国懸」で「日鏡・国照」という意味が浮かび上がってきて、これは「天照・国照」という古くからの語彙セットと一致しそうだ。
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東国への出口の伊勢、西国への出口の日前、大和の要所であり、中央構造線の東西端にもあたる。伊勢と日前にほぼ同時期に天照大神が祀られたのである。
神奈備は名草山であったが、後に御船山に変わったものと思われる。
この神社には「神母」の伝承もあるとは松前健氏『探訪神々のふる里』に述べられているが、この伝承は伊太祁曽神が鎮座していた頃の伝承かもしれない。伊太祁曽は日抱尊との怪説もある。または神宮の建物形式が江戸時代には八幡造であり、八幡神やご当地の武内宿禰との関係も無視できない。
日前神宮拝殿
紀の國
紀の国は古来より高句麗や加羅とつながりが深く、また紀ノ川の治水等も古くから行われており、農産物倉庫・馬具の出土と岩橋千塚の中心とするおびただしい古墳群は、その農業力、海運力、また良馬を入手できた事等、近畿でも特異な文化圏を形成し、大和とは独立した勢力であった事を物語っている。*1
神武東遷説話に「軍名草邑に至る。即ち 名草戸畔 という女賊を誅す。」とある。日前・國懸の両社に挟まれて名草姫命.名草彦命を祭る中言神社が摂社として鎮座している。この女酋長を祀った祠との見方も可能である。
紀氏
ツングース系の人々が半島を経由し、紀伊と半島の両方に根拠を持ったことで、紀伊に特異な文化圏を築いた。王は木氏であり、紀氏であると言われている。木氏は蘇我氏にも分かれたとされている。
宮司の紀氏は現在で80代目とされ天皇家、出雲の千家とならび、日本では最も古い家系である。武内宿禰やその後裔に紀貫之を輩出している。紀伊国造家は、国造補任式のスタイルも独特で、朝廷も一目置いていた一族であった。
中世には戦国大名になり、秀吉に反抗したが、大田城の水攻めにあい、神領 をことごとく没収されたが、徳川頼宣によって再建された。
お姿
日前宮は最初琴浦の海底の岩に出現、その後名草の浜の宮に遷され、その後今の秋月の地に祀られた。
ここの日前の森に句〃迺馳命(ククノチのみこと)が祀られているが、この神は伊奘諾尊と伊奘冉尊から生まれた木の神であるのも紀の国らしい。
照葉樹の森が盛り上がっている町の中の深林の趣である。「ここはただならぬところ、紀州のしんですね。」「古神道を知るには、書物を読むよりもこの森にくるといい。」と司馬遼太郎氏の「街道を行く32」に記されているのがこの神宮のおもむきを十二分に物語っている。
摂社中言神社
お祭り
2月17日 祀年祭
9月26日 例祭
11月23日 新嘗祭 新穀感謝祭
両本殿の中央の祭祀跡
| 『和歌山県神社誌』日前国懸神宮のページ
日前神宮国懸神宮
〒640 和歌山市秋月≡六五番地
JR和歌山駅・南海貴志川線・日前宮下車
問い合せ先 пZ七三四−七一−三七三〇
祭 神 (主祭神) 日前大神・囲懸大神
(配祀神) 思兼命 石凝姥命 玉祖命 明立天御影命 細女命 天道根命 名草姫命 名草彦命 事代主神 野槌神 宇迦廼御魂命 大山咋命 松平頼雄命 誉田別命 武内宿爾 月夜見命
境内社 天道根神社 中言神社 蛭子神社 深草神社 宇迦廼御魂神社 松尾神社 邦安神社 八幡神社 高良神社 月夜見神社 境内末社他に十四社 祭神座数百七十座合祀
例祭日 九月二十六日
宮 司 紀 俊武 〒六四〇 和歌山市秋月三六五番地
権禰宜 富澤 昇 横田政巳
特殊神事 瓜祭(七月八日) 平瓮伏察(十一月十八日夜) 平瓮起祭 (十二月十九日夜)
社 宝 目前国懸両宮縁起 日前宮恒例法式 日前宮年中神事記 日前国懸両大神宮書立 大神宮神 記
主たる建造物
本殿 (木造鋼瓦葺流入母屋造、六七平方米)ニ社
拝殿 (木造鋼瓦葺切妻造三七平方米)
摂社 (木造鋼瓦葦春日造五・五平方米)
摂社 (木造銅瓦葺神明造六・七平方米)
遥拝所 (木造瓦葦切妻造九・九平方米)
神楽殿・絵馬殿 (木造瓦葦入母屋造一六三平方米) 手水舎(木造銅瓦葦切妻造一三・入
平方米)
社務所 (木造瓦葦六〇〇平方米)
鳥居(鉄筋コンクリート造明神鳥居)
境内地 (五〇、000平方米)
氏子地域・和歌山市・秋月・有家・太田・新中島・黒田・網走・新在家・北出島・南出島中島・杭ノ瀬・手乎・吹屋町・新生町・新留町・美園町 田中町・木広町・出水
氏子戸数 八、〇〇〇戸
崇敬者数 一〇、〇〇〇人
由 緒
謹みて接するに日前大神国懸
大神は、天照大神の前霊に座しまして、
其の稜威名状すべからぎるなりと社伝
にあります。太古天照大神が素盞嗚尊
の行いを嘆き、天の岩窟に幽居まして
しまい、世界が闇となってしまった時、
思兼命の教えに従い種々の弊吊を備え、
大御心を慰め和めし奉るに当り、石凝姥命が、天の香山
の金を採って大御神の御像を鋳造られました。『日本書
紀』第一の書に、時に高産霊の息思兼神といふ者有り。
思慮の智有り。乃ち思ひて白して曰さく、「彼の神の象を
図し造りて招示壽ぎ奉らむ」とまうす。故、即ち石凝姥を
似て冶工として、天香山の金を採りて、日矛を作らしむ。
又真名鹿の皮を仝剥ぎて、天の羽輔に作る、此を用て造
り奉る神は、是即ち紀伊国に所坐す日前なり。とあり、
この時鋳造られたのが、伊勢神宮奉祀の八咫の鏡、日前
神宮奉祀の日像鏡、国懸神宮奉祀の日矛鏡であります。
『日前国懸両大神宮本紀大畧』 によると、神鏡者則日前
大前也日矛者則国懸大神也とあり、天照大神 (日神) 招
示壽ぎ奉るのに鏡を用いたことが窺われます。御鎮座の次
第は、天孫降臨の時、天道根命が日像 日矛の両鏡を奉
斎して持ち来り、神武天皇二年名草郡毛見郷浜宮に祀り、
垂仁天皇十六年名草万代之宮、すなわち現在の地に鎮座
したと伝えられています。以来、天照大神の御神体とし
て祀られており、八咫の鏡の御同体として、古代より朝廷
の崇敬厚く、藤原定家が献弊使として神馬を奉った記録
もあります。両神は天道根命の子孫である紀氏の手によ
り代々奉斎され、平安時代には四七年ごとの遷宮もされ
ていたと伝えられています。『紀伊国造系図』 によると、
始祖は天御中主命にはじまり、高皇産霊尊を経てその子
を天道根命とし、紀伊国造は天道根命が始祖といわれ現
在に至っています。中世には御炎上のことありと記録に
見え、天正の兵乱に侵され神域はなはだしく荒廃の時も
ありましたが、南龍公 (徳川頼宜) により社殿は再建さ
れました。日前国懸両神宮は、ともに延喜の制、名神大
社、月次、相嘗、新嘗には案上の宮弊に預り紀伊国一の
宮でありました。明治四年、神格の治定により両宮とも
宮弊大社に列せられていました。尚現在の御社殿は大正
十四年に造営されています。
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古代史街道貴志川線
紀の国 古代史街道
神奈備にようこそ
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