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「波宝神社」と「丹生都比売神」
『天河への招待』(大山源吾氏)には、「神功皇后は紀伊日高に上陸、紀和国境を越えて、吉野丹生の里、銀峯山小竹宮(シヌ)に入ったと、この地の伝承は伝える。
なぜならそこに強力な味方丹生一族の存在を興した行動に違いない。」と記している。 地の伝承は採録されたものであろうが、後は氏の想像である。
丹生都比売神の名前は「神功皇后紀」には一切出てこないのであり、『播磨国風土記』逸文に爾保都比売命が神功皇后の渡韓・新羅征伐を助けた神として登場し、紀伊國の筒川の藤代の峯にお鎮めしたことが記されている。
何故、丹生都比売神の名前が「神功皇后紀」には出てこないのであろうか、何か8世紀初頭の朝廷にとって不都合であったのだろうか。
何もなさそうである。要するに時の大和王権にはそのような伝承が伝わっていなかったのであり、紀朝臣家の一員であったろう紀清人達の史官には知られていなかった話であったと言うことであろう。
彼等は皇后が日高から小竹宮へ移り、そこで「阿豆那比の罪」の話を持ち出し、二社の祝(小竹と天野)の合葬までは記しており、紀氏の祖とされる紀豊耳の名前までは記しているのである。
紀清人は紀豊耳の名前さえ出せればそれでよかったのだろうか。
さて、海のないこの山中に「往来ふ船を看さむ」住吉神とは奇怪である。神功皇后が斎祀ったとは思えないと言うか祀られている側である。
物部の遠い祖饒速日命が祀られていた神社は蘇我物部の戦いの以降住吉神に切り替わっている場合が河内交野などに見られる。 この吉野の山中に物部の足跡はあったのだろうか。金属採取・武器製造の氏族である物部氏のこと、豊富な資源に目をつけたかも知れない。
白銀山と呼ばれたのは、この山の土が総じて白っぽいのであることによるのだろうか。
銅鉱脈が走っていたというが、丹砂(水銀)の気配は見当たらない。赤土がない山である。かの松田博士もまったく注目すらされていない。
中央構造線のまっただ中、実に不思議な地域である。
祭神が丹生都比売神ではなく、神社名も丹生神社ではない。丹生都比売神を隠す理由もない。
また波比売神社、波(売)宝神社と言う名前も、現在の祭神、山の名前、元の祭神とする丹生都比売神とも無関係のように思われる。
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