紀伊續風土記 巻之十七 名草郡 山東荘 明王寺村から
生都 彦神
○生都比賣神 相殿三扉二間 二間半 境内山林共方一町許
三部 明神
明王寺の北にあり
祀る所の神本國神名帳載る所の従四位上生都彦ノ神従四位上生都比賣ノ神是なり
後世三部明神を合せ祭り三座の神となせり
當社古より此地に鎭り坐しに 鳥羽上皇山東ノ荘を根來寺に寄られしに因りて覺鑁上人此地に伽藍を造立して明王寺と號せし
伊太祁曾明神の奥ノ院となし其區域を東西八町南北六町と定めしより當社の境内其區域の中に入りて當社自然と明王寺の鎭守神の如くになれり
寛永記に神名を丹生明神とせり
外に白山權現熊野權現妙見社なとありて明王寺の鎭守なれともこれらと同し姿となれりとみゆ
然れとも其時供僧廿六名を置きしに伊太祁曾神社及當社皆供僧各六名と定むる時は當社を敬仰する事伊太祁曾と粗斉くして全く鎭守神とするにあらさる事知るへし
後世明王寺衰へ區域廣大の制壊れて當社の境内猶一町許を占[シメ]給へるを觀れは本より特立の神にして明王寺とは別なる事明けし
今三部明神を合祭るとするは三部明神と銘する神鏡を社内に納る故なり是は永禄七年(1564年)根來より社再建の時納る所といふ此時新に合せ祭りしや
古く合せ祭りしに此時新に御靈代を造りしや
其事は今詳にしかたし
當社の事猶異説多し
詳に神社考定に部辨せり
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